ペニャロールの起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:16 UTC 版)
「スーペルクラシコ (ウルグアイ)」の記事における「ペニャロールの起源」の解説
南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって創設されたサッカークラブが多く、ペニャロールもまた、1891年9月28日にセントラル・ウルグアイ鉄道で働くイギリス人達によってCURCC(セントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クルブ)として創設された。モンテビデオ郊外のビジャ・ペニャロールを活動拠点とした。黄色と黒色のクラブカラーは鉄道の信号と踏切の色に由来する。創設メンバー118人のうち、72人がイギリス人、1人がドイツ人、45人がウルグアイ人であった。1900年、同じくヨーロッパ出身者が中心となって運営する4クラブでサッカーリーグを創設。1911シーズンまでに5回のリーグ優勝を果たすなど好成績を収めていたが、次第に親会社にとってクラブ運営が負担になっていき、1913年12月13日にセントラル・ウルグアイ鉄道から独立してペニャロールを結成した。1923年、ペニャロールはウルグアイサッカー協会(AUF)に造反してウルグアイサッカー連盟(FUF)を設立、独自の国内リーグを立ち上げた。その後1927年に再統合されるまで国内サッカーは大混乱に陥った。1927シーズンに正規の国内リーグへの再加盟を果たし現在に至っている。
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