プレスリーの移籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:15 UTC 版)
数ヶ月以内にプレスリーのレコードのヒットにより、フィリップスは業務を大幅に拡大した。南部の全てのラジオ局とレコード店はしきりに彼のレコードをかけたがり、プレスリーの名声は翌年まで上がり続け、フィリップスはプレスリーを全国的に売り出すには手狭過ぎると考えていた。1955年2月、フィリップスはマネージメントで有名であったトム・パーカー大佐と会った。パーカーはプレスリーの成功には大規模なレコード会社が必要であると説得し、数ヵ月後フィリップスはプレスリーとの契約を売却することに同意した。フィリップスはパーカーに3万5千ドルのうち、11月15日までに5千ドルの頭金を要求した。当時3万5千ドルというのはまだ全米の舞台に立ったことがない歌手の契約金としては破格で、通常の歌手の契約としても前代未聞であった。 プレスリーはサンを離れたくなかったが、サンのエンジニアのジャック・クレメントによるとフィリップスは借金の清算と当時まだ払い続けていたルーファス・トーマスの『Bearcat 』で起こった著作権法違反金のために金銭が必要であったのだ。しかしフィリップスは大抵のレコード会社は手を引くと思い、3万5千ドルを提示したのだと語った。にも関わらず1955年11月、プレスリーはRCAレコードと契約し、サンを離れた。フィリップスはこの時の契約金の一部を基に、ジョニー・キャッシュ、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソンなど他のアーティストの売り出しを行なった。
※この「プレスリーの移籍」の解説は、「サン・スタジオ」の解説の一部です。
「プレスリーの移籍」を含む「サン・スタジオ」の記事については、「サン・スタジオ」の概要を参照ください。
- プレスリーの移籍のページへのリンク