フレデリック砦建設と奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 17:56 UTC 版)
「セントジョン川方面作戦」の記事における「フレデリック砦建設と奇襲」の解説
1758年9月13日、モンクトンと正規兵およびレンジャーズはハリファックスを発って、1週間後にセントジョン川河口に到着した。この地域に建てられていたモナグーシュ砦は1755年に破壊されていたが、砦の跡地から、数人の民兵が到着したイギリス軍に砲撃を行い、船で上流へ逃げた。追跡しようとした戦闘用のスループ艦、プロビデンスは、リバーシングフォールズで難破した 。 モンクトンは、モナグーシュ砦を再建して新しい作戦本部を建て、そこをフレデリック砦と名付けた 。この砦建設により、セントジョン川の集落への連絡と補給とは事実上断たれた 。 この時モンクトンに同行していたアメリカン・レンジャーズには3つの小隊があり、それぞれの指揮官はジョセフ・ゴアハム、ベノニ・ダンクスそしてジョージ・スコットだった。モンクトンと部隊とがセントジョン川に姿を現した時に、ボワシェールは退却した。 10月1日、モンクトンは、正規兵やレンジャーズと共に、リバーシングフォールズの上流を船で立ち、2日後にグリムローズの集落に着いた。ここに1755年に移住してきた50世帯は、立ち退きを余儀なくされていた。モンクトンの部隊は家屋や建物を焼き、畑に火を付け、すべての家畜を殺した 。その2日後、モンクトンはニューブランズウィックのジェムセグの集落を、あとかたもなく焼きつくしてから、セントジョン川のフレデリック砦に戻った。
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