フリースラントとウンターエルベ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 00:01 UTC 版)
「農民共和国」の記事における「フリースラントとウンターエルベ」の解説
ドイツ語の農民共和国(Bauernrepublik)という言葉は、もともとフリースラントとザクセン北西部を指していた。この地域は中世を通じて封建制や農奴制が敷かれず、「フリースラントの自由(英語版)」と呼ばれる非常に高い独立性を謳歌していた。この地域の「農民共和国」共同体の例として、ブテャディンゲン(英語版)、シュタットラント(英語版)、シュテディンゲン(英語版)、ラント・ヴルシュテン(英語版)、ラント・ハーデルン(英語版)、ディットマールシェン(英語版)が挙げられる。 これらの農民共和国の中には、農民の中から権力を手にして自ら封建的な領主のようなものになる者が現れたり、単純に近隣の諸侯に併合・征服されたりしたものもあった。 15世紀、キルクセナ家(英語版)がオストフリースラント(英語版)(東フリースラント)の数々の農民共和国を支配下に置いた。1464年、ウルリッヒ1世フォン・キルクセナは、みずからオストフリースラント伯(英語版)を称した。同じころ、ウェストフリースラント(英語版)(西フリースラント)はブルゴーニュ公国領ネーデルラントに併合され、スペイン領ネーデルラント(英語版)時代を経てネーデルラント連邦共和国領となった。この結果、現在ではウェストフリースラントはオランダ領、オストフリースラントはドイツ領になっている。シュテディンゲンの農民は1233年にブレーメン大司教に反乱を起こし、一度はシュテディンガー十字軍を撃退したものの、1234年のアルテネシュの戦い(ドイツ語版)で敗北し、ブレーメン大司教領(ドイツ語版)とオルデンブルク伯領(ドイツ語版)に組み込まれた。このほかにも、ブレーメン大司教は1524年にラント・ヴルシュテン、オルデンブルク伯は1514年にブテャディンゲンとシュタットラントを屈服させた。これらと比べればハーデルンは比較的幸運だった。この農民共和国は13世紀にザクセン=ラウエンブルク公国の支配下に入ったが、この公は非常に弱体だったため、ハーデルンの農民たちは19世紀までかなりの範囲で自治を続けることができた。
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