フリント車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「フリント車」の解説
詳細は「フリント・モーター・カー・カンパニー」を参照 1921年6月:財務建て直しのため売りに出されていたウィリス=オーバーランドのニュージャージー州エリザベス工場、および、ジョン・ウィリス所有のニューヨーク州シラキュースのニュープロセスギア社(New Process Gear Company)を落札。エリザベス工場の落札ではウィリス=オーバーランドを離れて間もないウォルター・クライスラーと競りあった。クライスラーは500万ドル、デュラントは520万ドルだった。ウィリス=オーバーランドに在籍していたWPクライスラーが委託し、1920年にスチュードベーカーを離れた3人が結成した『Zeder-Skelton-Breer Engineering Co.』が開発し、『クライスラー車』となる予定の車もこの契約に含まれた。デュラントとなった工場でZSB社が引き続き関わりここでフリント車を開発した。ZSBは一方でクライスラー車の初期の開発にも関わった。ウィリス子会社のニュープロセスギア社もデュラントが10万ドルで競り落とした。ここはのちクライスラー所有となった。この2拠点の売却でジョン・ウィリスはウィリス=オーバーランドの破産を免れ、新たな時代を築くことができた。 同年末、マックスウェル・アンド・チャルマー社(Maxwell/Chalmers)も再生委員会により競売にかけられ、スチュードベーカー、ホワイト・モーターなどとともにデュラントも競り落としに加わった。これは銀行側がウォルター・P・クライスラーに委託してWPクライスラーにより新たなマックスウェル・モーター社が設立され、のちにクライスラー社となった。 デュラントはエリザベス工場買収により7月にフリント・モーター・カー・カンパニーを設立。ZSB開発車をベースとしたフリント車を製造販売した。1923年6月にフリント6(E-55型)を生産開始。1924年3月フリント (H-40型) 発表。1926年フリント60とE-55後継フリント80発表。
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