フランツ・カフカとは? わかりやすく解説

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フランツ・カフカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 10:22 UTC 版)

フランツ・カフカ(Franz Kafka、チェコ語: František Kafka1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、現在のチェコ出身の小説家プラハユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆した。どこかユーモラスな孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる[1] ような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。


注釈

  1. ^ 以下「生涯」の節は、池内紀『カフカの生涯』および池内紀・若林恵『カフカ事典』巻末年譜(216頁-223頁)を元に作成し、これ以外に基づく部分のみ脚注で出典を示す形を取った。
  2. ^ カフカの生家は旧ゲットー地区の周縁部に位置している。カフカ一家はここに2年ほどしか住んでおらず、家業が成功するに従い転居を繰り返した[3]
  3. ^ 「フランツ」がドイツ人の名であるのに対して、「カフカ(kafka)」はチェコの姓である。kafkaは、チェコ語でコクマルカラス(コガラス)を意味するkavkaに由来する。ここから、カフカの父ヘルマンの店の商標には、カラスの絵が用いられていた。1788年に、ヨーゼフ2世によってユダヤ人皆姓令が下された際、他の多くのユダヤ人が支配階級の言語に合わせてドイツ名を選ぶ中で、カフカの祖先はチェコ名である「カフカ」を選んだ。この姓を選んだ理由は定かではないが、ヤコブ(jakob)のイディッシュ語の短縮形ヤコブケ(jakovke)から来ている可能性もある[4]
  4. ^ ヘルマンは1890年の国勢調査の際に、チェコ語を家庭内で用いる言語と回答している[7]
  5. ^ この叔父は、1941年、ナチスにテレージエンシュタットの強制収容所に移送されることを拒み、自殺した[10]
  6. ^ カフカの3人の妹はカフカの死後、いずれもナチスに捕らえられて殺害されている[12]
  7. ^ カフカはこれより前に、市民のたしなみであったフランス語を家庭教師から習っているが、幼いカフカにはフランス語は身につかなかった。
  8. ^ しかしカフカは自由選択科目としてチェコ語も選択している[7]
  9. ^ カフカの指導教官は、マックス・ヴェーバーの弟アルフレート・ヴェーバーであったが、彼とは儀礼的な関係しか持たなかったらしい[21]
  10. ^ カフカの父ヘルマンはカフカとイディッシュ語劇団との交流を快く思っておらず、この事はカフカと父との溝を深める一因となった(#父との軋轢参照)。
  11. ^ 「アスカニッシャー・ホーフ」の「ホーフ(Hof)」には「ホテル」の他に「法廷」の意味がある。ここで行われたフェリーツェ達との会談では、グレーテがカフカの手紙を「証拠物件」として朗読する等、さながら法廷での審理の様相を呈していた[26]
  12. ^ グレーテ・ブロッホはイタリアに亡命した後の1940年、イスラエルの音楽家ウォルフガング・ショッケンに宛てた手紙の中で、1914年にカフカの子供を生んだと記している。それによれば、生まれた息子は1921年に7歳で死んでおり、子供が生まれた事も死んだ事も父親には知らせなかったという。しかし、残された手紙や当時の状況等から見て事実とは考え難い[27]
  13. ^ エルンスト・ヴァイスはこの頃カフカと最も親しくしていた人物で、カフカより1歳年長、外科医としての経歴をもつユダヤ人作家であった。彼は上述のアスカニッシャー・ホーフでの会談にも立ち会っている[28]
  14. ^ 退職時秘書官主任となっていたカフカの俸給は年俸3万クローネンで、年金は1万2000クローネンであった。更に敗戦によるインフレーションが重なり、カフカの生活は非常に苦しくなった[31]
  15. ^ 2人はベルリンで生活を始めた半年後、カール・ブッセ夫人の家の空き部屋に転居している。
  16. ^ カフカは勤めについてから手製の時間割を作り、かなり長い間これを守り通していた[38]
  17. ^ 当時のフィルムは残されていないが、H.ツィシェラー『カフカ、映画に行く』の中で、当時カフカが見ていた映画が跡付けられている。
  18. ^ カフカの住居の変遷についてはヴァーゲンバッハ[2003]が詳しい。
  19. ^ カフカの就職の際の健康診断書によれば、身長182センチ、体重61キロだった[55]
  20. ^ ハプスブルクの行政下では「都市ユダヤ人」「土地所有ユダヤ人」「村落ユダヤ人」という区分が成されていた。カフカと貧しい家庭のユーリエとの婚約は、父ヘルマンにとっては身分の下落以外の何ものでもなかった[57]
  21. ^ カフカは、ここで幼少期の記憶の一つを綴っている。カフカは、ごく幼い頃、夜中に水が欲しいと駄々をこねて両親を困らせてしまい、怒った父に中庭に面したバルコニー(パヴラッチュ)に下着姿のまま締め出され、しばらく放って置かれた。この記憶は、その後数年間カフカを苦しめたという。この体験は「パヴラッチュ体験」と呼ばれ、研究者によって無数の論文が書かれている[58]
  22. ^ カフカは13歳の時、ユダヤ教の習慣に従って「パル・ミツヴァ」と呼ばれる成人の儀式を行っているが、祖父の代にあった様な宗教性は既に失われていた[67]。前述の「父への手紙」には、父に対してユダヤ教についての知識の浅さを詰る箇所がある。
  23. ^ 生前のカフカの著書は表現主義の牙城であったクルト・ヴォルフ社から出版されていた為、初期受容期にはカフカも、しばしば表現主義の作家とみなされていた[75]
  24. ^ カフカはフェリーツェ・バウアーとの婚約に悩んでいた頃、日記に「フローベールとグリルパルツァーを思い出す事」と記している。どちらも膨大な日記類を残し、また、その中で結婚と独身のそれぞれの利点について思案した作家であった[77]
  25. ^ クラウス・ヴァーゲンバッハらは、プラハのドイツ語は貧弱で生気のない、文章語的な言語であり、カフカは逆にそれを利用して独自の文体を作り上げたのだとしているが[81]、この見解はプラハの言語学者達によって実態に合わないとして批判されている[82]。リッチー・ロバートソンは、「プラハ・ドイツ語」とは100年前にドイツのナショナリストによって空想された方言であり、現実には存在しないとしている[83]
  26. ^ カフカの草稿には「プラギスムス」と呼ばれる、チェコ語の用法から影響を受けたドイツ語が幾等かあり、例えば「ニ、三の」を意味するein paarを冠詞を付けずにpaarと記している箇所等がある。カフカは自作を出版する為に原稿を見直した時には、これらの用法はすべて正書法に直していた[85]
  27. ^ 尚、クラウス・ヴァーゲンバッハは、これらのモチーフについて、カフカが大学時代に学んだ事のあるフランツ・ブレンターノの哲学からの影響を指摘しているが、エルンスト・パーヴェルは情報源の信頼性等の点から疑問視している[92]。また、これらのモチーフについては、カフカが大学時代に一時期熱心に学んだハンス・グロスの犯罪学からの影響を指摘する研究者もいる[93]
  28. ^ 共に1000部印刷されたが、19年出版の『流刑地にて』は翌年6月までに607部売れたものの、『田舎医者』はかなり売れ残り、ショッケン社が残部を引き受け、1934年まで販売され続けた[102]
  29. ^ カフカは生前、ブロートへの遺言を2度行なっている。1921年の最初の遺言ではブロートを遺稿管理人に定め、自分の原稿全てを焼却する様、指示していた。翌年の2度目の遺言では若干自己批判のトーンを和らげ、「判決」「火夫」『変身』「流刑地にて」「田舎医者」「断食芸人」のみを自身の作品として認め、それ以外のものは全て焼却する様にと頼んでいる[105]
  30. ^ リルケは特に「火夫」を高く評価しており、『変身』も「流刑地にて」もまだ「火夫」の域に達していないと評していた。カフカは1916年12月7日にフェリーツェに宛てた手紙の中で、この事を記している[114]
  31. ^ 以下この「死後の名声」の節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。
  32. ^ また、ある日目覚めると女性の巨大な乳房になっていた男を描くロスの小説『乳房になった男』(1972年)では、ゴーゴリの『鼻』などともにカフカの『変身』が言及されている。
  33. ^ ヴァイスの自伝的小説『消点』(1961年)では、20代の語り手がカフカの『審判』を読んで衝撃を受け「わたしがこれまでに読んだものはすべて、背景にしりぞいてしまった」と述べる場面がある[125]。のちの『抵抗の美学』(1975年-1981年)にも、登場人物である3人の労働者が『審判』を読んで、プロレタリアートである自分たちの状況を重ね合わせる場面が描かれている[126]。またヴァイスは1974年に『審判』の舞台用の翻案も行った。
  34. ^ アラスター・グレイは、その自伝的なリアリズムと超自然的な要素とを組み合わせた作風をカフカから得ている[127]
  35. ^ クンデラはカフカの業績を重要視しており、『小説の精神』『裏切られた遺言』などの評論やエッセイで幾度もカフカに言及している。『小説の精神』収録のインタビューではカフカがプルーストジョイスとともに「三位一体」と見なされていることに対し、「私個人の小説史では、カフカこそが新しい方向を、プルースト後の方向を開いたのです」と述べている[128]
  36. ^ フラバルの代表作『あまりにも騒がしい孤独』にはカフカ作品からの影響や共通点が指摘されている。この作品を補足するものとして作られたフラバルの「アダージョ・ラメントーソ」という詩はカフカの思い出に捧げられており、またフラバルには「カフカールナ(「カフカ的状況」を表すチェコ語)」と題する短編作品もある[129]
  37. ^ 安部公房の1986年のインタビューにおいて「僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます」「カフカはつねに僕をつまづきから救ってくれる水先案内人です」と語っている。もっとも安部がカフカを知ったのは作家になってからしばらく後のことで、その影響も直接的ではなく、初期の幻想的な作品はカフカよりもむしろポーキャロルからの影響があるという[130]
  38. ^ 小島はインタビューにおいて、自分は他者の作品から「小説的な気分」を受けて作品を執筆することがあり、世界文学ではその相手は決まってカフカとベケットだと語っている[131]
  39. ^ 倉橋の特に初期の作品はカミュサルトルと並んでカフカからの影響が見られる。初期の短編「婚約」末尾にはこの作品がカフカへのオマージュである旨が記されている[132]
  40. ^ カフカはクッツェーが愛読する作家の一人であり、裁き・審判をテーマとする『恥辱』はカフカの『審判』とのつながりを感じさせる[133]
  41. ^ ランドルフィの奇想にはしばしばリラダンポーゴーゴリなどとともにカフカからの影響が指摘されている[134]
  42. ^ アッペルフェルドはヘブライ大学在学中、マックス・ブロートマルティン・ブーバーゲルショム・ショーレムなどからの教えを受けている。彼らの多くは生前のカフカと面識があり、アッペルフェルドはナチスからの迫害によって体感した「不合理な世界」をカフカの作品に見出し強い影響を受けた[135]
  43. ^ カヴァンは30代後半になってからカフカを読み、その作品からアレゴリー的手法を学んだ。「ヘレン・ファガーソン」からをKを頭文字に持つ「アンナ・カヴァン」への改名は、『審判』の主人公ヨーゼフ・Kを意識したものである[136]
  44. ^ オースターはインタビューで、興味のある現代作家の名を聞かれた際「散文作家では、無論カフカとベケットだ。二人とも私に対してものすごい呪縛力を持っていた」と述べている[137]
  45. ^ ゼーバルトの短編「ドクターKのリーヴァ湯治旅」は、カフカの出張旅行を再現した作品であり、カフカの「狩人グラフス」『失踪者』などからの引用が縦横に行われている。
  46. ^ 村上は少年時代に『城』を読んで衝撃を受けて以来、カフカの作品を繰り返し読んでおり、ドストエフスキーと並んで影響を受けた作家であると述べている。2002年の『海辺のカフカ』もカフカへのオマージュとして書いたものだという[138]
  47. ^ 残雪はカフカの作品に対する評論を継続的に執筆し、1999年にカフカ論集『カフカ 魂の城』を刊行している。日本語版の巻頭に収められているエッセイでは、30歳ごろにカフカの作品を読み始めたときのことを書き、「もしかしたら、その何の気なしの行動が文学全体に対する私の見方を変え、その後の長い文学探索の中で、文学への新たな信念を獲得させてくれたのかもしれない」と述べている[139]
  48. ^ リンチは自作とカフカとの関係をインタビューで問われた際に愛読していることを語り、「兄弟になれそうな気がするアーティストの一人」だと述べている。リンチはカフカの『変身』の映画化も企画したことがあり、脚本までできているものの膨大な制作費用がかかり、元が取れそうにないため実現には至っていないという[140]
  49. ^ トリアーはカフカの『失踪者(アメリカ)』を愛読しており、『ドッグヴィル』の舞台をアメリカに設定したのも『失踪者』を踏まえてのことだとしている[141]
  50. ^ スピーゲルマンは若い頃からカフカを愛読しており、それが自分にとって重要なことだったと語っている[142]
  51. ^ 作風にカフカからの影響が指摘されており、また『この世の終りへの旅』には『審判』や「掟の門前」を思わせる場面が登場する[143]
  52. ^ ズビネック・セカール(Zbynek Sekal)は、チェコの彫刻家。門をモチーフにした一連の作品など、カフカから着想を得た作品群がある。また『変身』を初めてチェコ語に訳した。
  53. ^ レベッカ・ホルンは、ドイツの現代アーティスト。ハンブルクの絵画学校時代からカフカやジャン・ジュネの文学に関心を抱いており、1994年発表のオブジェ『カフカ連作』など、カフカが作品の主題としてたびたび現れている。
  54. ^ 玉野大介は、東京都出身の現代アーティスト。カフカを題材にした作品群を継続的に発表しており、2009年に「奇跡のカフカ」と題した個展を開催した。ブログでもカフカの肖像連作を掲載している。
  55. ^ 歌詞の引用の例としてはスマッシング・パンプキンズのアルバム『ZEITGEIST(ツァイトガイスト)』中の曲"Doomsday Clock"など。またスコットランドのポスト・パンクバンド ヨーゼフ・K(en:Josef K)はカフカの『審判』の主人公から名を取っている。
  56. ^ 以下この節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。解釈群の分類も概ね城山文献によった。
  57. ^ ただしルカーチはハンガリー事件での政治的経験を経てのちに見方を変え、カフカを極めて重要な作家であると見なすようになった[145]
  58. ^ 日本で最初にカフカの作品を翻訳したのは、羽白幸雄である[149]。羽白は1933年(昭和8年)5月、短編集『田舎医者』から、「兄弟殺し」と「隣り村」をカスターニェンの第2号(京大独乙文学研究会)に掲載した。また、同年9月に、同人誌「日輪」創刊号に、短編「橋」、「小さな寓話」、「プロメートイス」、「夫婦」を掲載した。しかしこれらはいずれも研究会の会報、同人誌であったため、市民に広く紹介されることはなかった[149]

出典

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  2. ^ 城山、1頁
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  5. ^ 若林「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁、パーヴェル、6頁など。
  6. ^ 若林「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁-193頁
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  9. ^ ヴァーゲンバッハ[1967]、14頁
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  12. ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 女性」 『カフカ事典』、71頁、ヴァーゲンバッハ[1969]、31頁、脚注部)。
  13. ^ 城山、13頁-14頁
  14. ^ パーヴェル、73頁、城山、14頁
  15. ^ フーゴ・ベルクマン 「学校時代、大学時代」 『回想の中のカフカ』所収、29頁
  16. ^ 城山、14頁
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  24. ^ パーヴェル、207頁、池内「カフカ文学をめぐる十二章 機械」 『カフカ事典』、30頁-33頁
  25. ^ 若林「カフカ・キーワード フェリーツェ・バウアー」 『カフカ事典』、196頁-197頁
  26. ^ 池内『カフカの生涯』、254頁-255頁、パーヴェル、317頁-318頁。
  27. ^ パーヴェル、310頁-311頁、池内『カフカの生涯』、246頁-247頁。
  28. ^ パーヴェル、304頁-305頁、317頁。
  29. ^ パーヴェル、318頁
  30. ^ パーヴェル、371頁
  31. ^ パーヴェル、422頁。
  32. ^ 池内「フランツ・カフカ」 『カフカ事典』、8頁
  33. ^ パーヴェル、194頁
  34. ^ 池内『カフカの生涯』、148頁
  35. ^ 若林「年譜」 『カフカ事典』、220頁
  36. ^ 池内『カフカの生涯』、339頁
  37. ^ ドーラ・ディアマント 「フランツ・カフカとの生活」 『回想の中のカフカ』所収、290頁-293頁。また、このエピソードは、『消えてしまったお人形』(ジーン・リチャードソン、1995年)として絵本化されている。
  38. ^ 池内『カフカの生涯』、213頁。
  39. ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、42頁、池内『カフカの生涯』、215頁
  40. ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 散歩」 『カフカ事典』、85頁-87頁
  41. ^ ヴァーゲンバッハ[2003]、61頁-63頁
  42. ^ 池内『カフカの生涯』、93頁
  43. ^ 若林「年譜」 『カフカ事典』、219頁-220頁、池内『カフカの生涯』、262頁
  44. ^ 池内『カフカの生涯』、346頁-347頁
  45. ^ アンダーソン、197頁-205頁、池内「カフカ文学をめぐる十二章 映画」 『カフカ事典』、62頁-65頁
  46. ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、42頁-45頁
  47. ^ 池内『カフカの生涯』、274頁-276頁
  48. ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、44頁
  49. ^ 池内『カフカの生涯』、141頁
  50. ^ 池内『カフカの生涯』、142頁-144頁
  51. ^ ヴァーゲンバッハ[2003]、88頁-90頁等に所収
  52. ^ 若林 「カフカ・キーワード 労働者傷害保険協会」 『カフカ事典』、202頁-204頁
  53. ^ 城山、10頁-11頁、若林 「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、193頁
  54. ^ 池内『カフカの生涯』、182頁-187頁、214頁
  55. ^ 池内『カフカの生涯』、126頁-127頁。
  56. ^ 若林 「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁-193頁
  57. ^ 池内『カフカの生涯』、11頁、295頁-296頁。
  58. ^ 池内『カフカの生涯』、305頁。
  59. ^ 池内『カフカの生涯』、301頁
  60. ^ 池内『カフカの生涯』、111頁-112頁
  61. ^ パーヴェル、172頁、池内「カフカをめぐる十二章 女性」 『カフカ事典』、42頁
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  63. ^ 池内『カフカの生涯』、227頁-228頁
  64. ^ 池内「カフカをめぐる十二章 手紙」 『カフカ事典』、95頁
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  66. ^ パーヴェル、32頁
  67. ^ 池内『カフカの生涯』、71頁-72頁。
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  108. ^ 以下の作品リストは若林「カフカの作品I・II・III」 『カフカ事典』、102頁-187頁を元に作成した。
  109. ^ a b c d e これらの作品タイトルは池内紀『カフカ小説全集』に基づくもの。
  110. ^ ロバートソン、30頁
  111. ^ 池内『カフカの生涯』、166頁、パーヴェル、166頁-167頁
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