フラワーのドン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/05 00:24 UTC 版)
もっとも、山口国男として有名なのはフラワーラインという、競輪史には欠かせない大グループの首領(ドン)であったという事実だろう。 フラワーラインの詳細については別途項目があるのでそちらに譲ることにして、とにかく山口という選手は皆から好かれていた選手であり、ひいては親分肌の性格も持ち合わせていた。したがっていわゆる「政治力」という点において長けていた選手であることには間違いなく、また山口のためだったら是非とも協力したいという選手も少なくなかった。 1979年の日本選手権決勝。山口は弟・健治に優勝させるため、当時39期の新人だった尾崎雅彦に犠牲役を演じさせることを考えた。なぜ尾崎にそうした役回りをさせたかというと、中野浩一が決勝へと駒を進めていたからであり、とにかく地元地区である立川競輪場で開催されている以上、中野にだけはタイトルを奪われたくなかったという思いが強かったからでもあった。尾崎は果敢に健治を連れて逃げ、すると中野は捲り不発に終わってしまった。最後は番手から抜け出した健治が勝ち、健治はわずか22歳の若さでダービー王の座を掴んだ。 さらに同年のオールスター決勝で中野の豪快な捲りに屈した健治と同期の吉井秀仁が、とにかく中野だけには勝ちたいという一心の思いを抱いていた。東京と千葉といえば、競輪ではそれぞれ関東地区と南関東地区に分かれており、意外と普段の競走においては連携するケースは少なかったが、中野を倒さなければタイトルを手中にできないという考えは国男も持っており、だったら関東と南関東という区切りを取っ払って一緒に連携していこうという繋がりから、ついにフラワーラインという一大グループの結成を見ることに至るわけである。 山口は1980年あたりからフラワーの参謀に徹する機会が多くなかったが、さらに勢力拡大を目指し、北日本はもちろん、競輪選手になる前に山口には大変世話になったという、岡山の西谷康彦のような選手まで現れ、中国地区にまでその勢力を伸ばすことに成功していた。やがて競輪界においては、「フラワーにつくのか九州(中野)につくのか」という二者選択まで迫るような流れとなっていった。
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