フラワーVS中野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 05:31 UTC 版)
1979年の日本選手権競輪(立川競輪場)決勝で、尾崎雅彦の逃げに乗った山口健治が、後ろにいた藤巻昇、谷津田陽一の好アシストもあって断然人気の中野の捲りを封じ込め、見事初タイトルを手にすることになったが、これがフラワーラインVS中野浩一という図式のきっかけにもなった。 この図式を描いていたのは健治の兄・国男であった。国男はフラワーのドンと言われ、自らは特別競輪のタイトルを手にすることはなかったが、「参謀」としてフラワーラインの中枢を掌り続けた。 同年の競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)の決勝戦では地元・九州勢が中野を含めて6人も決勝へと駒を進めながらも、お互いがまるで同士討ちのような形のレース展開となり、正攻法の位置にいた吉井秀仁が、国男を連れてそのまま逃げ切ってしまった。 さらに吉井は翌年の日本選手権(前橋競輪場)決勝では、見事九州ラインを分断することに成功し、逃げる江嶋康光を番手捲りしたばかりか、バックから捲ってきた中野を2センターで完全に封じ込め特別競輪を連覇。さらに続く高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)決勝でも、山口健治と中野の大競りを尻目に吉井は快調に逃げ、最後は優勝した藤巻昇、2着の国松利全に交わされ3着に終わったものの、完全に中野を押さえ込む走りを見せつけていた。
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