短き全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 04:26 UTC 版)
しかしながら、阿部の全盛期は短く、1975年にデビューした中野浩一がトップスターの地位を確立した時点で事実上終焉を迎えたといっても過言ではない。その要因として、岩崎誠一の不慮の事故にかかる成績不振や、フラワーラインの台頭に伴い、力と力がぶつかり合う「点の戦い」から、ライン最優先の「線の戦い」へと競走の流れが移ってしまったことに起因する。自分の型を押し殺してまでラインに貢献する走りというものを好まなかった阿部は、フラワーVS中野時代に入りすっかり埋没。1980年の日本選手権競輪(前橋競輪場、7着)が最後の特別競輪決勝進出となってしまった。
※この「短き全盛期」の解説は、「阿部良二」の解説の一部です。
「短き全盛期」を含む「阿部良二」の記事については、「阿部良二」の概要を参照ください。
- 短き全盛期のページへのリンク