フォントヴロー修道院への隠棲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:18 UTC 版)
「エルマンガルド・ダンジュー (1146年没)」の記事における「フォントヴロー修道院への隠棲」の解説
夫アラン4世が僧籍に入ったことにより離婚となり、エルマンガルドがフォントヴロー修道院で隠棲する障害はなくなった。 その後、念願叶い、レンヌの司教マルボダスから尼僧となる許可の手紙を受け取り、フォントヴロー修道院に入ることになった。 エルマンガルドはマルボダスから「唯一無二の最も麗しき方」と賛辞を送られた。 1114年、前夫ギヨーム9世の後妻、トゥールーズ女伯フィリッパ(トゥールーズ伯ギヨーム4世娘)もまた、ギヨーム9世が封臣シャテルロー副伯エメリー1世妃アモーベルジュこと”ダンジュルーズ”を愛妾とし、居城の敷地内に住まわせたことによりポワティエの城を去り、フォントヴロー修道院に隠棲していた。 エルマンガルドとフィリッパは交流を重ねる内に親友となり、1118年の秋にフィリッパが亡くなった後、当にエルマンガルドとギヨーム9世が離婚してから27年もの歳月が経過していたが、ギヨーム9世に復讐するべく、ポワティエに急いで赴き、「ギヨーム9世の破門」、「エルマンガルドへのアキテーヌ公妃の称号返却」、そして「アキテーヌ公居城に住まう愛人の追放」を要求した。 1119年10月、エルマンガルドは、ランスに滞在した際、ランス教議会に出席し、教皇カリクストゥス2世に自分の主張に対する支持を求めたが、拒否され、エルマンガルドはしばらく要求を主張し続けて騒ぎ、これにはギヨーム9世も困惑した。 そのせいか、ギヨーム9世はエルマンガルドから逃れるようにスペインに渡り、アラゴン王アルフォンス1世に従軍しサラセン人と戦った。
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