フェラーリへ転籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:07 UTC 版)
フェラーリの社長であるルカ・ディ・モンテゼーモロは、1991年からタイトル争いにも加われず、おまけに1勝もできずに低迷していたスクーデリア・フェラーリの復活のため、チームマネージメントからの改革を必要と考えた。 モンテゼモーロは他カテゴリーではあるが、実績を残しているトッドの仕事ぶりを高く評価し、チームマネージャー(監督)へ招聘した。トッドもF1で働きたい意欲があったのでオファーを受けたが、長期的な計画でチームの復活を図る必要を訴え、当時としては異例の5年契約で加入した。 1993年フランスGPから現場に合流したトッドは、チームリソースの現状を分析しながら、内部改革や必要な人材確保を徐々に実行し始める。1994年ドイツGPでゲルハルト・ベルガーが、1995年カナダGPでジャン・アレジがそれぞれ優勝したが、その一方でチーム復活に向け、当時唯一の現役ワールドチャンピオンであったベネトンのミハエル・シューマッハと交渉を始め、ドライバーラインナップの一新を図っていた。 そして1996年からシューマッハと、No.2ドライバーとしてジョーダンからエディ・アーバインを加入させた。また技術陣もそれまでのジョン・バーナードやグスタフ・ブルナーの代わりに、ベネトンのテクニカルディレクターであるロス・ブラウンと、チーフデザイナーのロリー・バーンらを引き抜いた。この体制は2000年には、トッド、シューマッハ、ブラウン、バーン、パオロ・マルティネッリらのいずれかがチームから離脱した場合、即座に他の人物も契約を解除できるようになっている、と報道されるほどの結束となっていった。
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