ピエールらのバルカン半島横断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 16:16 UTC 版)
「民衆十字軍」の記事における「ピエールらのバルカン半島横断」の解説
隠者ピエールと残った4万人規模の十字軍一行は4月20日にケルンを出た。その後に前述のゴットシャルクに率いられた軍勢とフォルクマーの軍勢、ライニンゲン伯エミッヒの軍勢が続いた。ピエールの軍勢はドナウ川に着き、一部は船でドナウを下ったが本隊は陸路を進みエーデンブルク(Ödenburg, 現在のショプロン)でハンガリーに入った。一方、ゴットシャルク、フォルクマー、エミッヒらの軍勢は各地のユダヤ人共同体を襲いながらピエールらを追うようにドイツからハンガリーへ向かった。ピエールの本隊は大きな事件も起こさず、東ローマとの国境のセムリンで、船で下った部隊と合流した。 セムリンの城壁にゴーティエの部下らの服や甲冑が晒されていたことから、一行の間に疑心暗鬼が生じ、さらに市場で靴の値段を巡る言い争いから暴動が起こり、ピエールの制止にもかかわらず全面的な武力衝突になってしまった。ハンガリー人4千人が殺されセムリンは十字軍に征服された。十字軍はサヴァ川をベオグラード側に渡り、東ローマ兵との小競り合いの後、住民の逃げ出したベオグラードを占領して略奪・放火した。 十字軍はベオグラードから7日間行進してニシュに7月3日に到着した。ニシュの町の司令官から「すぐに出てゆくならば食糧もコンスタンティノープルへの道案内も与える」と約束されたピエールはこれを受け入れ、翌朝一行はニシュを発とうとした。しかしドイツ人の一部が通り沿いの住民と口論をして製粉所に火を放ち、ニシュの全兵士が十字軍との交戦に入り、ピエールの制止も及ばずまたしても戦闘に突入した。ニシュの兵士は十字軍を完全に圧倒し、ここで一行の4分の1に当たる1万人が失われた。 生存者はこの先にあるベラ・パランカで再集合し、7月12日にソフィアにたどり着いた。ここからは東ローマ帝国から派遣された道案内が一行を先導し、コンスタンティノープルへは8月1日に到着した。ゴットシャルクやフォルクマー、ライニンゲン伯エミッヒらの軍勢はハンガリー領内で壊滅しており、コンスタンティノープルに入ったのはゴーティエの先発隊とピエールの本隊だけであった。
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