パーヴェル・ボロジンとは? わかりやすく解説

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パーヴェル・ボロジン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 05:38 UTC 版)

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パーヴェル・ボロジン
Павел Павлович Бородин
パーヴェル・ボロジン(2010年7月20日撮影)
生年月日 (1946-10-25) 1946年10月25日(74歳)
出生地 ソビエト連邦
ロシア連邦共和国ゴーリキー州シャフニヤ
出身校 ウリヤノフスク農業大学経済学部
ハバロフスク高級党学校
所属政党 ソ連共産党 (1991年まで)→
祖国
イワン・ルイプキン・ブロック

連盟国国家書記
在任期間 2000年1月26日 - 2011年11月15日

在任期間 1993年11月15日 - 2000年1月10日
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パーヴェル・パーヴロヴィチ・ボロジンロシア語: Па́вел Па́влович Бороди́н、ラテン文字転写の例:Pavel Pavlovich Borodin1946年10月25日 - ) は、ロシア政治家1993年11月15日から2000年1月10日までロシア大統領府総務局長。2000年1月26日から2011年11月15日までロシア・ベラルーシ連盟国(ロシア・ベラルーシ連邦国家)国家書記(国務書記、国務長官)[1]

経歴

1972年ウリヤノフスク農業大学経済学部を卒業する。1973年から1980年まで建設業の仕事に就き、「ヤクーツクゲオルギア」(Якутскгеология)エコノミスト課副総支配人となる。1980年ヤクート自治共和国のヴィリュイスク市執行委員会議長。ヤクーツク市執行委員会議長。1985年ハバロフスク高級党学校を卒業する。1988年ヤクーツク市議会選挙に立候補する。1990年から1993年までヤクーツク市議会議長。同年ロシア共和国人民代議員に当選する。1991年5月、人民代議員大会では会派「祖国」(オッチズナ)に所属した。8月クーデター後は、ソ連共産党を離党する。1993年2月、「進歩のための同意」会派と女性、家族、母性、児童擁護委員会に所属した。

1993年11月15日から2000年1月10日までロシア大統領府総務局長。

1995年12月、ロシア連邦議会下院国家会議選挙ではイワン・ルイプキン連合の名簿に掲載されたが、同連合は5パーセント条項を突破できず、ボロジンは議席を得ることはできなかった。

1996年サンクトペテルブルク第一副市長を辞職したウラジーミル・プーチンをロシア大統領府総務局次長として抜擢、プーチンをモスクワへと異動させた。(ただし、この抜擢についてはアナトリー・チュバイスが行ったという説もある)。

2000年1月26日から2011年11月15日までロシア・ベラルーシ連盟国(ロシア・ベラルーシ連邦国家)の初代国家書記(国務書記、国務長官)を務めた。

大統領府総務局長時代からエリツィン政権の「金庫番」と見做されていた。マネーロンダリングの容疑で2001年にはアメリカで逮捕されている。

脚注

  1. ^ Григорий Рапота стал новым госсекретарем Союзного государства — Российская Газета

外部リンク

先代:
(初代)
連盟国国家書記
2000年 - 2011年
次代:
グリゴリー・ラポータ




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