パーリ語による記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 01:41 UTC 版)
「マヒシュマティ」の記事における「パーリ語による記述」の解説
仏典の『ディーガ・ニカーヤ』ではマヒシュマティはアヴァンティの首都であったと伝えられるが、『アングッタラ・ニカーヤ』ではウッジャインがアヴァンティの首都であったとも伝えられる。マハーゴヴィンダ・スッタで伝わる物語でもまたマヒシュマティはアヴァンティの都であり、過去二十四仏の一が王であったと伝えられる。これらの記述から、一時的にウッジャインからマヒシュマティにアヴァンティの首都が遷されたとも解釈できる。 『ディーパワンサ』ではマヒサと呼ばれる領域について、マヒサ・ラッタ (Mahisa-ratta, マヒサ国) として言及している。『マハーワンサ』ではこれらの地域はマンダラ(英語版)として説かれ、マヒシャ・マンダラ (Mahisha-mandala) と呼ばれる。5世紀の学僧ブッダゴーサはこの領域をラッタム・マヒシャム、マヒシャカ・マンダラ、マヒシュマカと様々な名前で呼んだ。ジョン・フェイスフル・フリート(英語版)はマヒシュマティはこれらの地域の都で、マヒシャと呼ばれる部族から名付けられたとの説を建てた。これは『マハーバーラタ』の『ビーシュマ・パルヴァ(英語版)』中で南方(つまりヴィンディヤ及びナルマダーの南)の王国と説明されるマヒシャカと同じとみなされる。 『スッタニパータ』ではバヴァリの弟子たちがウッジャインからプラティスターナへ旅した際、マヒシュマティが中途の都市の一つだったと述べられる。サーンチーの碑文には、マヒシュマティからの巡礼がサーンチーのストゥーパを訪れたと記されている。
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