バセイン条約と第二次マラーター戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:25 UTC 版)
「バージー・ラーオ2世」の記事における「バセイン条約と第二次マラーター戦争」の解説
ヤシュワント・ラーオ・ホールカルに敗れたのち、同月27日にバージー・ラーオ2世は側近とシンディア家の兵ともにラーイガドに行き、そこで一ヶ月過ごした。そして、彼はさらにボンベイを拠点とするイギリスの領土へと逃げた。 そして、1802年12月31日にバージー・ラーオ2世はイギリスの援助を受けるため、軍事保護条約バセイン条約を結び、1803年5月13日にプネーに帰還した。 だが、バージー・ラーオ2世が結んだバセイン条約には、マラーター王国の領土割譲なども約してあったため、マラーター諸侯の反感を買うこととなった。味方だったシンディア家もイギリスがマラーター同士の争いに関与してきたことに脅威をおぼえ、宰相府から離反した。もはや、イギリスとマラーター諸侯との争いは不可避であった。 同年8月、イギリスとマラーター諸侯シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家との間に戦闘が起こった(第二次マラーター戦争)。しかし、シンディア家とボーンスレー家の軍勢はイギリスとの幾度かの戦闘で敗れ続け、12月にそれぞれ講和条約を結んだ。 しかし、ホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルだけは戦争を続行し、彼は戦いを互角に持ち込み、イギリスは戦費増大を恐れる結果となった。そして、両者ともに戦闘が続行不能に陥った時、1805年12月に講和が結ばれ、戦争は終結した。
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