ハルトゥームの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 14:07 UTC 版)
「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「ハルトゥームの陥落」の解説
ウォルズリー軍の先遣隊は1885年1月28日になってようやくハルトゥームに到着した。そして、その2日前に行われたハルツーム包囲戦で町が陥落したことを知った。ナイル川の増水の季節が終わったころ、ゴードン方のエジプト人レフテナント(中尉に相当)ファラズ・パシャ(Faraz Pasha)が水門を開き、そこからアンサールたちの侵入が可能な状態にした。これにより駐留部隊は殺戮され、ゴードンは宮殿の階段のところでマフディー軍と戦った末に殺害された。遺体は細切れに刻まれ、首を刎ねられたが、これはもとよりアル=マフディー(ムハンマド・アフマド)の禁ずるところであった。ゴードンの首級がアル=マフディーの足下に転がされたとき、彼はこれを木の枝が分かれるところに固定するように命じ、「その木の下を通る者は誰でも軽蔑を込めてこれを見ることができるように、小童どもがこれに小石を投げつけられるように、砂漠の鷹がこれの上を旋回しその肉をついばむことができるようにせよ」と言った。ウォルズリー軍は船で到着したものの、町の中心部へ向かおうと突破を試みると火のつぶてが飛んできたため退却した。 マフディー軍は掃討戦を続けた。カサラーとサンナールはすぐに陥落し、1885年の終わりにアンサールたちはスーダン南部の諸地域への教宣を開始した。いまや、イギリス領インドの植民地軍により強化された紅海沿いのスワーキンと、イギリス=エジプト連合軍の手中にある国境沿いのワーディー・ハルファーを除いて、スーダン全域がマフディーヤへの援助者(アンサール)となった。
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