ハイナ島についての記録と研究史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 13:54 UTC 版)
「ハイナ島」の記事における「ハイナ島についての記録と研究史」の解説
ハイナ島についての植民地時代以降の記録としては、16世紀のCalkini絵文書の記述、1703年にフランスで刊行された地図に古代の建物がある場所としてMorros de Jaina(「ハイナの丘」)として記載されている。 19世紀には、カンペチェの港湾管理者であるアンドレス・エスピノザがハイナ島の地権者であったこと、主だった記録だけでも1843年にアメリカ人探検家B.ノーマン、1883年にハーバード・バンクロフト、1886年にデジレ・シャルネなどが訪れたことがわかっている。漁労民、骨董愛好家、海賊やそれ以外の旅行者がハイナ島についての言い伝えや記録を残し、地図にも記載され続けてきた。 1910年から20年にかけてのメキシコ独立革命で、ハイナ島は個人の所有ではなくなった。1940年代に、アルベルト・ルスやローマン・ピニャ・チャンをはじめとする多くの研究者によって本格的な学術調査が行われて以来、地図を作成するための測量や発掘調査を行うためにたびたび研究者が訪れている。1986年にアントニオ・ベナヴィデスによって学術調査や遺物整理を行う基地として現場事務所がおかれ、1996年から98年にかけてベナヴィデスとエリザベス・サラゴサの指揮のもとに、サヨサル建築グループの発掘調査と土器などの遺物整理が行われている。
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