ノリリスク蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:28 UTC 版)
1953年に市制が敷かれた。このころまでに、ノリリスクには病院、学校、スタジアム、クラブ、映画館など、必要な都市インフラはすべて建設されていた。当時のノリリスクの人口は7万7千人で、そのうち6万8千人がノリラグの囚人であった。 1953年3月のスターリンが死去すると、同年夏以降、政治犯収容所ゴーラグをはじめとするノリリスクの収容所において収容者によるストライキが発生した。それ以前にもグラーグでの騒乱は多数あったが、大きな反乱としてはこれが最初であった。ゴーラグでは、主にウクライナ人、バルト人、ポーランド人が収容されていた。収容所管理者によって数人の囚人が射殺されたことで蜂起が誘発された。元軍人や西ウクライナ、リトアニア、ラトビア、エストニア、グルジアの民族解放運動の参加者が主役となり、ほぼすべての収容者が蜂起に参加した。この蜂起により約100人が死亡、250人以上が負傷した。蜂起指導者や活動家は中央収容所に入れられた。結果として拘禁の条件は軟化することとなり、1956年8月22日のソ連内務大臣の命令によってノリリスク収容所は清算された。
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