ネパール王国の創始、東方の制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/04 17:20 UTC 版)
「ネパールの統一」の記事における「ネパール王国の創始、東方の制圧」の解説
1742年、プリトビ・ナラヤン・シャハが第10代ゴルカ王となった。彼はヌワコートを奪取したばかりか、盆地とチベットとの交易路を遮断し、経済的圧力をかけた。そして、1768年にカトマンズとパタンを、1769年にバクタプルを征服して盆地を統一し、 ネパール王国を建国した。 だが、1771年から1772年にかけて、二四諸国の連合軍がネパール王国に戦いを挑んできた。この戦いでネパール軍は大敗を喫し、指揮官は捕虜にされ、負傷した執政が捕虜となったばかりか、包囲されたネパール軍は投降を余儀なくされた。 このため、プリトビ・ナラヤンは西方への進出を断念し、東方への遠征をおこなった。この遠征は成功し、ブータン王国やシッキム王国と国境を接するに至ったが、1775年にプリトビ・ナラヤンが死亡したために軍は引き返された。王の死までに、その領土は現ネパールのほぼ東限にまで広がっていた。
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