ドン・ペドロとイネスの悲恋とは? わかりやすく解説

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ドン・ペドロとイネスの悲恋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/28 08:49 UTC 版)

アルコバッサ修道院」の記事における「ドン・ペドロとイネスの悲恋」の解説

ポルトガル王アフォンソ4世在位1325年 - 1357年)は1334年王太子ドン・ペドロカスティーリャ王コンスタンサ・マヌエル結婚させた。ところが、カスティーリャ王国から嫁いできたコンスタンサ女官のなかにイネス・デ・カストロという香しい美女がおり、ペドロイネス方に夢中となった王位後継者正妻省みず不倫の愛に溺れるのを見かねたアフォンソ王は何度もペドロイネスとの関係を絶つように迫るが、ペドロ聞き入れようとはしなかった。王女コンスタンサ王子フェルナンド(のちのフェルナンド1世)を出産した早世した。やがて歳月流れペドロイネスとの間に子も生まれた公務ないがしろにしてコインブラ愛の生活を送るペドロ絶望したアフォンソ王は、ついにイネス亡き者にするよう3人の家臣命じた1355年1月7日王子ペドロ不在の間に3人の刺客イネス暗殺した。このことを知ったペドロ怒り狂いポルトガル北部反乱を起こすが、母后ベアトリスとりなしで、翌1356年8月父と子和解したその5ヶ月後、アフォンソ王が死去しペドロポルトガル王位に即位した。これがペドロ1世在位1357年 - 1367年)である。 ペドロ王は父王とは和解しても、実際にイネスを手にかけた3人の刺客許せなかった。カスティーリャ逃れた2人ポルトガル引き渡されペドロ王の目の前で処刑された。アラゴン王国亡命した者は自殺追い込まれた。イネス亡くしたペドロ1世その後二度と結婚せず独身通している。そして公務精励し、しばしば地方巡回して裁判行った。その裁判厳格極めペドロ厳格王と呼ばれた。ドニャ・イネスの悲劇は、ポルトガルの詩や伝説の中で永く語り継がれている。

※この「ドン・ペドロとイネスの悲恋」の解説は、「アルコバッサ修道院」の解説の一部です。
「ドン・ペドロとイネスの悲恋」を含む「アルコバッサ修道院」の記事については、「アルコバッサ修道院」の概要を参照ください。

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