トロツキズムへの転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 04:43 UTC 版)
指導者としての地位を追われ、蒋介石によって息子の二人もが殺害された失意の陳独秀は、1929年にスターリンに敵対するトロツキーの存在を知り、コミンテルンの中国政策をトロツキーが批判していることに狂喜する。陳独秀は共産党に対する激しい内部批判に転じ、コミンテルンの中国政策こそが「日和見主義」の元凶であると指弾し、「コミンテルンおよび中国共産党中央の日和見主義者と最後まで闘争しなければならない」と訴えた。この発言のために共産党から除名処分を受けた陳独秀は、新たに「無産者社」というトロツキスト団体を結成し、トロツキーとも連絡を取りながら1931年に中国トロツキストの統一組織である中国共産主義同盟を結成してその総書記となる。しかし、国民党と共産党の両方を敵に回した中国のトロツキズム運動は瞬く間に壊滅し、1932年に蒋介石の国民党の弾圧によって逮捕される。
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