トヨダからトヨタへ トヨタマークのデザイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/12 04:00 UTC 版)
「中島種夫」の記事における「トヨダからトヨタへ トヨタマークのデザイン」の解説
東京で美術修行を終えた後、長崎で家業を継いでいた種夫は、昭和11年(1936年)の夏、豊田自動織機製作所が国産の大衆車を発表するにあたり、自動車部門(現トヨタ自動車工業の前身)が独立するために新しい豊田のマークの公募を知り、2点を応募。 条件は「トヨダ」をスピード感のあるマークに仕上げることだったが、種夫はどうしても濁点があるとスピード感が損なわれ、また九州では濁点を付けない読み方が一般的であるので勝手に読みを変えてしまった。 ちなみに中島の姓も九州では「なかじま」とは読まず「なかしま」である。応募は北は樺太、南は台湾、当時の支配下だった満州や中国から2万7千点も集まり、自動車に関する注目の大きさが感じられる。 昭和11年(1936年)9月25日、日本橋高島屋にて各界の審査員が厳選されて残った570点の中から中島種夫の作品を一位とした。その後、トヨダ商標はすべてトヨタに変わった。
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