トイトブルク森まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 18:38 UTC 版)
「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事における「トイトブルク森まで」の解説
ティベリウスが反乱鎮圧のためイリュリクムへ発った後、アウグストゥスはプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスをゲルマニア方面の司令官とした。大ゲルマニアの地はおおむね平定されたと見なされていたため、ウァルスはこの地を帝国に編入する作業に取り掛かった。アウグストゥスは軍事的に行われるこの事業の中で反乱が起きるリスクを考え、経験ある将軍であるウァルスにこの任務を託したのである。もはや大規模な軍事行動は終わり、卓越した才能を持つ司令官を投入する必要はないという判断であった。 ウァルスは、他のローマが征服した土地でしてきたのと同じように、税制などの改革をゲルマン人に課した。しかしこれに反発したゲルマン人諸部族は、ケルスキ族のアルミニウスを新たな指導者として結集し始めた。もともとアルミニウスはローマの同盟者とされており、ローマ軍に与して戦ったこともあった。今回のウァルスの遠征でも、アルミニウスはローマ第17軍団、第18軍団、第19軍団に同行して、ゲルマニアの征服完遂に協力していた。 9年の遠征の前半の状況はよく分かっていない。ヴェーザー川の基地を発ってクサンテンに帰還する途中、ウァルスはアルミニウスから、ローマ軍の駐屯地の西方で小規模な反乱が起きたという報告を受けた。ライン川西岸へ帰る途中のローマ軍団からすると、2日ほどの距離しか離れていない地での小反乱を鎮圧しに向かっても、ほんの回り道をするだけのように見えた。ウァルスは反乱鎮圧に向かいつつ、アルミニウスが自分の部族を率いて援軍に来ることを期待していた。しかしこの時、アルミニウスはローマ軍団を奇襲する手筈を整えていた。一方のウァルスは、反乱は大きな問題ではないと考え、襲撃を受けた場合の対策を特に用意していなかった。
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