デンマーク王妃とスキャンダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:26 UTC 版)
「キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ」の記事における「デンマーク王妃とスキャンダル」の解説
1766年、従兄であり、デンマークとノルウェーの王に即位して間もないクリスチャン7世と15歳で結婚した。精神障害のあったクリスチャン7世との結婚生活はうまくゆかなかった。王は、カロリーネ・マティルデを愛せないと公に宣言さえして無視し、長男フレデリクの誕生後、彼女は孤独な生活を送った。 1769年、ドイツ人の医師ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセが、外遊中のクリスチャン7世をデンマーク領アルトナで診察したことから、国王の侍医となる。アルトナには、デンマーク宮廷を追われたランツァウ伯爵らがおり、彼らと共に啓蒙思想に傾倒していたストルーエンセは、その復権を期待されていた。 ストルーエンセと国王は親密な関係になり、国王は次第に言いなりになっていったが、野心家のストルーエンセはさらに王妃の取り込みも図った。王妃はストルーエンセを最初は嫌っていたと言われるが、すぐに愛人関係になった。1770年1月にはすでに2人の関係は公然の秘密となり、また王太子フレデリクに天然痘の種痘を施したことでその信頼は絶大なものとなった。 1770年9月以降、約16か月にわたり、ストルーエンセはクリスチャン7世の名で様々な改革、高官の罷免を行った。これらの中には進歩的で優れたものも含まれていた一方、性急な改革や彼自身の傲慢な態度によって、そして王妃とのスキャンダルによって人々の反感を買った。この間、長女ルイーセ・アウグスタが誕生する。
※この「デンマーク王妃とスキャンダル」の解説は、「キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ」の解説の一部です。
「デンマーク王妃とスキャンダル」を含む「キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ」の記事については、「キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ」の概要を参照ください。
- デンマーク王妃とスキャンダルのページへのリンク