ディーツ伯領のウージンゲン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 19:06 UTC 版)
「ウージンゲン」の記事における「ディーツ伯領のウージンゲン」の解説
9世紀初めから12世紀末までのウージンゲンの歴史に関する考古学的出土品は存在しない。13世紀初めになってやっと、1207年1月15日の交易記録にこの集落が再び記載されている。ゲルハルト・フォン・ディーツとハインリヒ・フォン・ディーツの兄弟がローマ王フィリップ・フォン・シュヴァーベンの代官区と城砦と引き替えにウージンゲンの教会と全王領に対する保護権を獲得した。この所領交換では農奴は例外であり、その所有権は王が保持することが明確に記されている。さらに農奴の半分はウージンゲンの教会に属し、半分が王領に属すことも明記されている。中世には、土地と人は一体とされており、分離されることはなかった。したがってこの文書は、フィリップ王は無人の土地だけを譲渡し、王領の価値の高い部分は自らが保持したのだと解釈される。 しかしディーツ伯はこの保護権によって主任司祭を任命する権利という利益を得たのである。また、これにより教会の収入に間接的に介入することも可能となった。 1208年にはすでにディーツ家の分家が与えられた土地に新たに建設した(アルテ=)ヴァイルナウ城にちなんで「ヴァイルナウ伯」を称した。1302年にその末裔が所領を分割し、ノイヴァイルナウに新たな城を築いた。
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