チャンガミレ王国の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:51 UTC 版)
「モノモタパ王国」の記事における「チャンガミレ王国の侵入」の解説
17世紀後半、モノモタパ王ムコンブウェに仕えていた牛の世話役であると言われるチャンガミレ・ドンボはモノモタパ王国の南のブトゥアで独立し、新たな地方勢力チャンガミレ王国が形成された。1684年のマウングウェの戦いでドンボはモザンビーク総督が率いるポルトガル軍に勝利を収め、返す刀でチャンガミレの本拠地を攻撃しようとしたムコンブウェを破る。 1692年にムコンブウェが没した後、ポルトガルの擁立した国王ドム・ペドロに対抗してニャクネムビレが王位に就いた。ニャクネムビレは外国人の活動に制限を設けようと試み、1693年にチャンガミレ王国の力を借りてポルトガル勢力をジンバブエ高原一帯から放逐した。ロズウィ族(ロジ)を率いるドンボによってポルトガル人の交易拠点(フェイラ)であるダンバラレが破壊され、ポルトガル商人をはじめとする50人ほどの住民が殺害されたと伝えられている。1692年から1694年までの間、ニャクネムビレが独立した君主として王国を統治していたが、ニャクネムビレはポルトガル人との戦いで落命する。1695年にドンボはマニカ王国の金の産出地を制圧した後、軍隊を東に進め、ポルトガルのフェイラであるMasikwesiを破壊した。軍事作戦の成功によってブトワからマニカに至るすべての金の産出地の支配権を完全に掌握することが可能となり、チャンガミレ王国はモノモタパ王国に代わる最大のショナ人の国家に成長した。 1694年から1709年までモノモタパ王国では内戦が続き、この期間に9人の国王が即位した。1711年にモノモタパ王国の首都はチャンガミレの攻撃を受けて陥落し、王は殺害される。チャンガミレの協力者であるサムトゥンブがモノモタパ王位に就けられた後、モノモタパの宮廷はチャンガミレからポルトガルとの交渉を制限され、「ジンバブエ」という宮廷の名称を使用することが禁じられる。チャンガミレはすぐにモノモタパ王国への関心を失い、南の地域での地位の強化を試みるようになった。
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