チトー以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 10:08 UTC 版)
第二次世界大戦が収束した1945年に成立した、ユーゴスラビア共産党(後にユーゴスラビア共産主義者同盟)による第二のユーゴ(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)は、セルビア、クロアチア、スロベニア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナの6つの共和国と、セルビア共和国内の2つの自治地域(ヴォイヴォディナ、コソボ)により再スタートを切った。この第二のユーゴの維持は、大戦中のパルチザン闘争を指導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚とカリスマ性に拠る所が大きかった。 従ってチトーが不在になれば、このバランスを維持する軸が失われることになる。ユーゴ解体につながりかねない動きはチトーの生前から見られていたが(クロアチアの場合は1971年のクロアチアの春)、1980年にチトーが死去した後、ユーゴスラビアを構成する各共和国、自治州の不協和音が噴出し始めた。 ユーゴスラビアでは1974年の憲法で、6つの共和国と2つの自治州の間でほぼ平等な主権を認めていたが、これに対してセルビアではユーゴスラビアを最も多く構成するセルビア人の権利が阻害されているという不満が生じてきた。1980年代半ばに、こうした不満を受けてセルビア民族主義を掲げて台頭したのが、スロボダン・ミロシェヴィッチである。一方、クロアチアの政治指導者たちは、セルビアを中心とした中央集権体制にユーゴスラビアを作り変えようとするミロシェヴィッチに反発した。
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