チトーの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 09:42 UTC 版)
「ユーゴスラビア共産主義者同盟」の記事における「チトーの死後」の解説
1980年にユーゴスラビア終身大統領のチトーが死去、SKJは集団指導体制に入った。しかし多民族国家ユーゴスラビアをまとめていたチトーのカリスマ性が失われたことは大きく、SKJの指導性は急速に崩壊を始めることとなる。その打開策として連邦を構成する6共和国の各共産主義者同盟の権限を大幅に拡大するなどの施策を講じたが、かつての影響力を回復することはできなかった。 1987年、セルビア共産主義者同盟(後のセルビア社会党)の書記長にスロボダン・ミロシェヴィッチが就任。彼のセルビア至上主義とも言うべき民族主義は、SKJ全体の連帯維持に亀裂を生じさせ、6共和国の各共産主義者同盟間の対立が激化し、1990年のSKJ臨時党大会でセルビアとスロベニアの共産主義者同盟がSKJから離脱。契機にSKJは共産主義政党、社会主義政党、社会民主主義政党などに分裂解体し、消滅した。
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