ダーハム・W・スティーブンス暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:38 UTC 版)
「張仁煥」の記事における「ダーハム・W・スティーブンス暗殺」の解説
1908年3月、スティーブンスの日本による韓国支配についての発言に大同保国会は激怒し、共立協会(Dongnip Hyeophoe)と共同で会議を開いた。なお、共立協会は地元にあった別の韓国系人の団体であり、田明雲が所属していた。同じ団体に所属していたYang Ju-eunは後に1974年のインタビューで、張仁煥は田明雲とは対照的に、会議の間一言も話さなかったと思い起こした。彼は「物静かで内気なクリスチャンの紳士」と評判だった。だが、彼はアジア人の銃所有を阻止する法律の抜け道を利用し、ルームメイトから銃を購入した。 1908年3月23日、張仁煥と田明雲はサンフランシスコで乗船準備をしていたスティーブンスに接近した。スティーブンスはフェリーでオークランドへ行き、そこで電車に乗り換えてワシントンD.C.へ行く予定だった。田明雲は最初、回転式拳銃でスティーブンスを撃ったが失敗し、突撃して銃を鈍器代わりにしてスティーブンスの顔を殴った。張はそこで格闘している2人にむけて突発的に発砲し、スティーブンスに背中から2発当たった。混乱の中で田明雲も撃たれた。集まった群衆はその場で2人を私刑にすべきだと主張した。張仁煥は殺人罪で逮捕され、保釈なしで留置された。その一方で、田明雲は治療のため病院に送られた。 2日後の3月25日、スティーブンスの死の知らせを聞いたとき、彼は明らかに喜んでいた。
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