ジョン・ミルンとの出逢い
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「トネ・ミルン」の記事における「ジョン・ミルンとの出逢い」の解説
1878年(明治11年)、最大の理解者であった父の乗経が死去した。トネは同年の父の月命日への墓参の折に、ブレーキストンに出逢い、このとき偶然にもブレーキストンがジョン・ミルンを連れていた。これがトネの生涯の伴侶となる、ミルンとの出逢いであった。 ミルンとトネは、初対面から互いに好印象を抱いた。トネは英語の読み書きができたこともあり、ミルンと親しい間柄となった。その後、ブレーキストン家で開催されたパーティーにおいて、ミルンとトネはさらに親密さを増した。ミルンはトネに、自分は仕事で函館を去らなければならないが、必ずまた函館に来ることを約束し、それまでの間の文通を申し込んだ。 数十通の文通を経て、翌1879年(明治12年)、ミルンは約束通り、再び函館を訪れてトネに再会した。トネがミルンに函館への来報を歓迎すると、ミルンは「私は函館ではなく、あなたのいる場所に来たのです」と告げた。 トネは1年間悩んだ挙句の答として、自分が「脳の病」との理由で女学校を退学させられたことを、ミルンに告白した。ミルンが真実を知れば、もう自分を相手にしないかもしれないとの覚悟であった。しかしミルンはトネを優しく理解し、自分もまたスコットランド人のためにイギリスでは差別に逢い、それと闘いながら現在の地位を得たこと経緯を話し、トネにも過去を踏み台としてより前進することを勧めた。 自分を優しく理解してくれるミルンは、トネにとってもはやかけがいのない存在となった。そしてミルンは自分が地震と火山の研究に明け暮れていることを話し、英語の私塾を志すトネに「2人で生活を共にしませんか」と誘いかけた。これがミルン流の求婚であった。
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