サド(思悼)世子:イ・チャンフン-(咲野俊介)
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英祖の次男で王世子(ワンセジャ)。サンの父。正室は恵慶宮(豊山洪氏)である。2歳で王世子に冊立され、10歳で恵慶宮と婚姻を結ぶ。少論派の学者から学問を学んだため、朝廷を掌握している老論派と対立した。のちに英祖の代理として政務を処理するようになると、貞純王妃と老論派が手を結び英祖に讒言するようになり、王世子を陥れた。次第に精神を蝕まれた王世子は奇行をくりかえすようになり、1762年に世子を廃され、王命により米櫃に閉じ込められ数日後に餓死した。のちに真相を知り息子が無実だと知った英祖はこれを悔やんで「思悼(サド)」と追悼し、1777年にはサンが即位後、「荘献」(チャンホン)と追尊した。のちに正祖が水原に華城や行宮を建設するとともに、当時の揚州(現在のソウル市東大門区の梨峰山)にあった父の墓を水原に移し(隆陵)しばしば供養のために訪れている。サンは即位後に彼を誹謗中傷するのは許さないと宣言している。
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