ケビン・マギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/01 18:43 UTC 版)
ケビン・マギー | |
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1989年イギリスGPを走るマギー(5号車)
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動期間 | 1987年 - 1993年 |
チーム | ヤマハ、スズキ |
レース数 | 36 |
優勝回数 | 1 |
表彰台回数 | 3 |
通算獲得ポイント | 326.5 |
ポールポジション回数 | 1 |
ファステストラップ回数 | 1 |
初グランプリ | 1987年 500cc 日本GP |
初勝利 | 1988年 500cc スペインGP |
最終勝利 | 同上 |
最終グランプリ | 1993年 500cc 日本GP |
ケビン・マギー (Kevin Magee, 1962年7月20日 - ) は、オーストラリア出身の元オートバイレーサー。1987年・1988年の鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝者。
経歴
キャリア初期
地元オーストラリア、そして日本でのプロダクションバイク(市販量産車)、スーパーバイクでのレースでマギーのキャリアは始まった。
オーストラリア国内のスーパーバイクのレースに、ボブ・ブラウンのチームからドゥカティを駆って参戦、その後はマイケル・ドーソンと一緒にウォーレン・ウィリングが運営するヤマハのディーラーチームからプロダクションレース・スーパーバイクレースに参戦した。当時はプロダクションレースが格上であり、スーパーバイクのシリーズは発展途上にあった。
1985年にモリワキエンジニアリングの森脇護により見いだされ、鈴鹿8時間耐久レースにモリワキ8号車で初参戦。翌1986年の鈴鹿8時間耐久ではドーソンとペアを組み、オーストラリアから持ち込んだスーパーバイク仕様のFZ750を駆って、ワークス勢に割って入る2位表彰台を獲得し、世界的に注目を浴びることになった。しかしこの年バサーストで開催された耐久レースでは大きなリードを保っていたにもかかわらず、ピットサインを見て後続が迫っていると勘違いし、結果転倒して足を骨折。GPデビューを遅らせることになってしまった。だが年末に開催されたスワンシリーズ[1]ではヤマハのワークスGPマシンに乗る機会を得て、6レース中2勝を収める活躍を見せた。
世界GPデビュー
1987年、マギーはケニー・ロバーツ率いるヤマハ・チームからロードレース世界選手権500ccクラスに、ワイルドカード枠で3戦の出場機会を得た。開幕戦日本GPはクラッシュに終わるが、雨に見舞われた第7戦ダッチTTでは初ポイントを獲得、そして第13戦ポルトガルGPで見事3位表彰台を獲得する活躍を見せた。またこの年の鈴鹿8耐にマーチン・ウィマーと組んで出場。ヨシムラの高吉克郎の転倒により、残り5分での逆転劇でヤマハに8耐初優勝をもたらす。さらにはTTフォーミュラ世界選手権(TT-F1クラス)の菅生ラウンドでも勝利を果たし、マギーは1シーズンに3つの世界選手権レースの表彰台に立った唯一のライダーになった。
1988年、マギーはランディ・マモラの後任[2]としてチーム・ロバーツ・ヤマハから、ウェイン・レイニーをチームメイトにフル参戦デビューを果たした。またこの年も鈴鹿8耐に参戦し、GPと同じくレイニーと組んで自身2連勝を果たした。
GPでは第3戦、ハラマで開催されたスペインGPで早くもGP初優勝を果たし、将来が有望視されていた。しかし翌1989年、ラグナ・セカで開催された第2戦アメリカGPで、マギーは不幸なアクシデントの当事者となってしまった。
ラグナ・セカでの事故
レース後のクールダウンラップ、4位に入ったマギーはバーンアウトのパフォーマンスをおこない、タイヤスモークをあげていた。その煙でマギーのマシンが見づらくなっていたところにババ・ショバートが突っ込んでしまった。この事故でマギーは足を骨折(2戦欠場後に復帰)、そして重傷を負ったショバートはレーサーとしてのキャリアを終えることになってしまった。
また皮肉なことに翌1990年のアメリカGPでは、マギーは前年と同じ場所でクラッシュし、頭部に重傷を負って1シーズンを棒に振ることになった。1991年はスズキから2戦、チーム・ロバーツ・ヤマハから1戦のみの出場に終わった。1992年の日本GPには日本テレコム・ヤマハからワイルドカードでの参戦が予定されていたがフリー走行で転倒し欠場、そして1993年の日本GPにワイルドカード参戦したのがマギーにとって最後のGPレースとなった。
他カテゴリでの活躍

マギーはスーパーバイク世界選手権にも何戦か参戦し、1991年と1992年には地元フィリップアイランドで勝利を記録した[3]。1992年には全日本ロードレース選手権GP500クラスでダリル・ビーティーと熾烈なチャンピオン争いを展開。最終戦の最終ラップまでチャンピオンを獲得できる展開だったが[4]、筑波サーキットの第2ヘアピン立ち上がりでコースアウト、転倒は免れたもののビーティーに逆転されわずか2ポイント差でランキング2位となった[5]。
1994年にはAMAスーパーバイクに参戦し、その後引退を発表した。
引退後
マギーはオーストラリア国内でのMotoGPとスーパーバイク世界選手権のテレビ放送で解説者を務めている。またオートバイ雑誌 " Two Wheels " で時折試乗レポートもおこなっている。
主なレース戦績
ロードレース世界選手権
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
年 | クラス | チーム | マシン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | ポイント | 順位 | 優勝 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 500cc | ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN NC |
SPA - |
GER - |
ITA - |
AUT - |
YUG - |
NED 10 |
FRA - |
GBR - |
SWE - |
CZE - |
RSM - |
POR 3 |
BRA - |
ARG - |
11 | 15位 | 0 |
1988 | 500cc | ラッキーストライク・ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN 7 |
USA NC |
SPA 1 |
EXP 3 |
ITA 5 |
GER 5 |
AUT 6 |
NED 4 |
BEL 5 |
YUG 5 |
FRA 9 |
GBR 5 |
SWE 6 |
CZE NC |
BRA 6 |
138 | 5位 | 1 |
1989 | 500cc | ラッキーストライク・ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN 5 |
AUS 4 |
USA 4 |
SPA INJ |
ITA INJ |
GER 7 |
AUT 5 |
YUG 4 |
NED 4 |
BEL 7 |
FRA 5 |
GBR 6 |
SWE 5 |
CZE 7 |
BRA 6 |
138.5 | 5位 | 0 |
1990 | 500cc | ラッキーストライク・スズキ | RGV500 | JPN 4 |
USA NC |
SPA INJ |
ITA INJ |
GER INJ |
AUT INJ |
YUG INJ |
NED INJ |
BEL INJ |
FRA INJ |
GBR INJ |
SWE INJ |
CZE INJ |
HUN INJ |
AUS INJ |
13 | 21位 | 0 |
1991 | 500cc | ラッキーストライク・スズキ マールボロ・ロバーツ・ヤマハ |
RGV500 YZR500 |
JPN 13 |
AUS 11 |
USA - |
SPA - |
ITA - |
GER - |
AUT - |
EUR - |
NED - |
FRA - |
GBR - |
RSM - |
CZE - |
VDM - |
MAL 5 |
19 | 19位 | 0 |
1993 | 500cc | 日本テレコム・ヤマハ | YZR500 | AUS - |
MAL - |
JPN 9 |
SPA - |
AUT - |
GER - |
NED - |
EUR - |
RSM - |
GBR - |
CZE - |
ITA - |
USA - |
FIM - |
7 | 25位 | 0 |
鈴鹿8時間耐久ロードレース
開催年 | マシン | チーム | ペアライダー | 総合順位 |
---|---|---|---|---|
1985年 | ホンダ・CBX750F | モリワキレーシング | ロブ・フィリス | 9位 |
1986年 | ヤマハ・FZ750 | マールボロ・ヤマハ・ディーラーチーム | マイケル・ドーソン | 2位 |
1987年 | ヤマハ・YZF750 | 資生堂TECH21 RT. | マーチン・ウィマー | 1位 |
1988年 | ヤマハ・YZF750 | チーム・ラッキーストライク・ロバーツ | ウェイン・レイニー | 1位 |
1989年 | ヤマハ・YZF750 | チーム・ラッキーストライク・ロバーツ | ウェイン・レイニー | リタイヤ |
1991年 | ヤマハ・YZF750 | ネスカフェRTヤマハ | ダグ・チャンドラー | 2位 |
1992年 | ヤマハ・YZF750 | ネスカフェCAN RTヤマハ | ニール・マッケンジー | 2位 |
脚注
- ^ オーストラリア国内で開催されていたシリーズ。GPマシンの出場も認められていた。
- ^ この年マモラはカジバに移籍
- ^ Kevin Magee career World Superbike statistics at worldsbk.com
- ^ 「表彰台獲得率100% アグレッシブな走りが奇跡を呼んだ」『ライディング No.279』日本モーターサイクルスポーツ協会、1992年12月1日、20頁。
- ^ http://www.motoracing-japan.com/result/index.html
- ^ Kevin Magee career statistics at MotoGP.com
- ^ 公式リザルト 鈴鹿サーキット公式サイト (2024年11月30日閲覧)
外部リンク
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固有名詞の分類
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