1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレースとは? わかりやすく解説

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1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/06 14:53 UTC 版)

1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレース
前年: 1984 翌年: 1986
1985 FIM世界耐久選手権 第3戦
鈴鹿8時間耐久ロードレース
決勝日 1985年7月28日
開催地 三重県鈴鹿市鈴鹿サーキット
コース 常設サーキット
5.943 km (3.693 mi)
距離 8時間
レース
ポールポジション
ライダー ケニー・ロバーツ 資生堂ヤマハTECH21レーシング
タイム 2'19.956
ファステストラップ
ライダー ワイン・ガードナー Team HRC
タイム 2'22.7
表彰台
優勝 ワイン・ガードナー
徳野政樹
チームHRC
2位 マイク・ボールドウィン
ドミニク・サロン
USホンダ
3位 グレーム・クロスビー
ケビン・シュワンツ
ヨシムラMOTUL

1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレース1985 Suzuka 8hours Endurance Road Race、1985ねんのすずか8じかんたいきゅうろーどれーす) は、FIM世界耐久選手権の1985年シーズン第3戦として、7月25日から28日にかけて三重県鈴鹿サーキットで開催された[1]

概要

1985年大会

大会を翌月に控えた6月8日、1983年シーズンをもってグランプリを引退した3度のWGP500王者ケニー・ロバーツが限定復帰し[2]、全日本500チャンピオンの平忠彦とのペアで8時間耐久に参戦することがヤマハより正式発表された[3]。ロバーツが鈴鹿でのレースに出場するのは初である[4][5]。ヤマハは本大会に向けて、同社にとって初の4サイクルTTフォーミュラマシン[6]であるFZR750の開発に力を入れ、同年初頭より全日本ロードレース選手権に参戦させていた[7]。ロバーツも7月中旬にAMAラグナ・セカ200YZR500で参戦し、ホンダ・NSR500に乗るランディ・マモラとトップ争いをするなどコンディションを高めて来日。サポートとしてもう一台のFZR750を開発担当者である上野真一が、ロバーツと信頼関係を築いてるベテラン河崎裕之[8]とのコンビで参戦など、ヤマハワークスが鈴鹿8時間耐久に本腰を入れた体制で臨むのも初であった[9]。なお、ヤマハからロバーツにこの8耐への復帰参戦が打診されたのは1984年末で、このときはすぐに断ったが、ヤマハ側が事あるごとに「ケニーが出てくれれば新たなスポンサーが付いてくれるかもしれないから」と真剣に話をしてくるからつい折れてしまった、と述べている[4]。この1戦のギャランティーは約500万円で、それはカウリングスポンサーとなった文房具メーカー・PLUSの今泉嘉久社長が協賛者として捻出した[10]

大会連覇を目指すホンダ・ワークスも現役グランプリライダーのワイン・ガードナーを投入、耐久選手権タイトルを狙うパトリック・イゴア&ジェラルド・コードレイ(Rothmansチーム)、HRCの日本人コンビ阿部孝夫&木下恵司を含めファクトリーマシンRVF750を4チーム体制とした。なお、その4チームの中で前年覇者のマイク・ボールドウィンフレッド・マーケル[11]のコンビで今年も参戦予定だったアメリカン・ホンダチームは、マーケルが2週前の「AMAラグナ・セカ200」で負傷したため欠場。急遽WGP250に参戦中のドミニク・サロンをボールドウィンのパートナーに起用し急造コンビで挑むこととなった。このアメリカン・ホンダチームのRVFのみ後輪が片持ちスイングアームとなっており、タイヤ交換時の時間短縮が期待された[12]

スズキは'83年大会の優勝コンビであるエルブ・モアノー&リカルド・ユービンの4号車と、耐久選手権レギュラーの5号車の2台のフランス・スズキチームのほか、ヨシムラからも2チームが参戦。油冷エンジン搭載のヨシムラ・スズキGSX-R750は全日本選手権で辻本聡喜多祥介両ライダーともTT F1クラスで勝利を挙げるなど好調のコンビが37号車、もう1台は8耐優勝経験者のグレーム・クロスビーと、アメリカAMAの21歳ケビン・シュワンツを組ませ15号車でエントリー。6月の鈴鹿200kmレース大会ではシュワンツを初来日させ、この8耐に向けて事前に鈴鹿独特のハイグリップ舗装を経験させるなど勝利への準備を整えた[13]

鈴鹿に拠点を置くコンストラクターのモリワキは、前年と同じくオリジナルのアルミフレームにホンダ・CBX750のエンジンを搭載するZERO X-7で参戦[14]。ライダーは八代俊二&宮城光組の26号車と、チーム代表の森脇護が発掘したオーストラリアンコンビのロバート・フィリス&ケビン・マギーの乗る8号車で2チーム体制を敷いた[15]

予選

ロバーツはレース前週の会見で記者からこの8耐での本気度に関して質問を受けた際に、「私は本気じゃないレースなんてしたことは無い。優勝する気がなければわざわざ日本まで来てないよ。」と回答していた通り、25日に最初のプラクティスセッションが始まるとGP現役時と同じようにまずは前後サスペンションのセッティングに集中。タイム的には2分22秒台後半で何周か走っては細部調整のためピットに戻っていた。この大会時点ではまだ翌シーズンからのWGPフル参戦決定前だった平は、予選・決勝とチームメイトとして共に戦った印象を、「8耐でケニーのパートナーとして同じマシンに乗り、チームを組んだからこそ判るのだろうけど、肉体面での鍛錬もレースシミュレーションも、陰で信じられないほどの努力をしている。そして人間的にいつも明るくて、周囲に対してとても思いやりのある点など見習いたい部分が多くありました。」と述べている[16]

ポールポジションを獲得したヤマハ・FZR750

26日の予選セッションに入ると、ガードナーが開始からわずか3ラップ目で2分20秒7のレコードラップを出した(それまでのレコードタイムはコンビを組む徳野政樹が6月に記録した2分21秒135)。ほかのライダーはこの序盤時点で24秒から25秒台前半であり驚異的なタイムと言えたが、ロバーツのパートナーである平も2分22秒2の2番手タイムを記録。この日の終盤にはロバーツも22秒4までタイムを短縮し3番手につけた。

スタートグリッドが決まる27日・土曜日、最終的なマシンセッティングが決まったロバーツは2年のブランクを感じさせない予選アタックを見せ2分19秒9の新レコードを樹立。前日にガードナーが記録したレコードタイムをさらに0.8秒短縮する走りを見せ、「慣れていない4ストロークマシンで速く走れるのか?」「どこまで真剣にやるのか?」と記事を書いていた欧州の記者を黙らせた[17]。2位のガードナーに続いて、予選3位は空冷のCBXエンジンながらモリワキの八代が2分22秒1を出し、日本人最速タイムを記録した。

予選結果

正式リザルト[18]
順位 No. チーム 車両 タイヤ タイム ライダー
1 21 資生堂ヤマハTECH21 RT ヤマハ・FZR750 M 2'19.956 ケニー・ロバーツ 平忠彦
2 3 チームHRC ホンダ・RVF750 D 2'20.799 ワイン・ガードナー 徳野政樹
3 26 モリワキレーシング モリワキ・ZERO X-7 D 2'22.113 八代俊二 宮城光
4 1 ロスマンズ・ホンダ・フランス ホンダ・RVF750 M 2'22.591 ジェラルド・コードレイ パトリック・イゴア
5 2 U.S ホンダ ホンダ・RVF750 M 2'22.977 マイク・ボールドウィン ドミニク・サロン
6 37 ヨシムラMOTUL スズキ・GSX-R750 D 2'23.120 喜多祥介 辻本聡
7 36 チームHRC ホンダ・RVF750 D 2'23.483 阿部孝夫 木下恵司
8 4 S.E.R.T フランス スズキ・GSX-R750 M 2'24.187 エルブ・モアノー リカルド・ユービン
9 8 モリワキレーシング モリワキ・ZERO X-7 D 2'24.465 ロバート・フィリス ケビン・マギー
10 25 レーシングスポーツ ヤマハ・FZR750 D 2'24.484 上野真一 河崎裕之
11 15 ヨシムラMOTUL スズキ・GSX-R750 D 2'25.122 ケビン・シュワンツ グレーム・クロスビー
12 19 スズキ・スウェーデン スズキ・GSX-R750 M 2'25.539 アンデルス・アンデルソン ペル・ヤンソン
13 5 S.E.R.T フランス スズキ・GSX-R750 M 2'25.611 パトリック・デ・ラディゲスドイツ語版 ジャン=ピエール・ウダンフランス語版
14 96 ダイシンレーシング ヤマハ・FZ750 D 2'26.047 金田真一 山本隆義
15 74 JIN PRIZE スズキ・RG400Γ D 2'26.357 伊藤巧 中村善弘
16 7 無限SPORTS ホンダ・CBX750F D 2'26.545 ジョイ・ダンロップ ロジャー・マーシャル
17 47 チームスガヤ スズキ・RG-400Γ D 2'27.120 島田進 福島秀彦
18 82 浜松エスカルゴRT ホンダ・CBX750F 2'27.164 武政次男 柴田真直
19 6 ホットカンパニーレーシング スズキ・GSX-R750 2'27.842 エルブ・ギュー英語版 池田直
20 43 ブルーヘルメットMSC ホンダ・CBX750F 2'27.957 森光一馬 萩原紳治
  • 予選通過60 台
  • 太字は予選タイムを記録したライダー。

決勝

7月28日・11時30分、好天に恵まれ、ピットの温度計では34℃まで気温が上昇、路面温度も高く過酷な状況下での開催となった。ル・マン式スタートでマシンまで駆け寄ったロバーツがFZRにまたがりスタートを試みるも、エンジンが始動せずほぼ最後尾まで落ちるというヤマハにとって最悪の展開で決勝レースは始まった[19]

ホンダRVF勢が1-2-3位を占め、3周目から3号車のガードナーが先頭に立ちコンスタントに2分24秒台のタイムでレースをリードしていく。スタート直後50位以下まで順位を下げたロバーツは1周目だけで20台を抜き、以後2分23秒台のラップタイムを連発しながら5周で12位まで追い抜きを続ける。7周目に同じFZRに乗る河崎を抜き、8周目にヨシムラの喜多とシュワンツ、HRCの木下を抜き、12周終了で3台のRVF勢の後方4位まで浮上する。スタートから約50分が経過した最初のライダー交代までにロバーツは1号車コードレイと2号車ボールドウィンも仕留め、首位ガードナーから33秒差の2位まで順位を回復させる。

FZRロバーツが平へ、RVFガードナーが徳野へとライダー交代。トップを行く徳野と2位平の差は交代直後37秒あったが、28-29秒台で走る徳野に対して平は24-25秒台前半をキープし差を詰めていく。大柄で体格の良い徳野は、身長差のあるエース・ガードナー寄りのポジショニング、サスセッティングのマシンであるだけでなく、通常はガードナーとは逆のシフトパターン(ガードナーは市販車パターン、徳野はレーサーパターン)であり、その状況での精一杯のライディングを強いられていた。38周目のシケイン立ち上がりでバックマーカーにつかえた徳野を、平が最終コーナーへの加速で追い抜き逆転。TECH21カラーのFZRはスタート失敗から約90分で55台を抜き去りトップへ返り咲いた。平は次のロバーツとの交代までに25秒のマージンを築き、任務を遂行した。

ホンダ・RVF750 (G.コードレイ / P.イゴア組)

予選3位を得ていたモリワキチームはスタート直後にバッテリー関連の不調で八代が緊急ピットインし早々に上位から脱落していた。八代から交代した宮城光は高速コーナー130Rでクラッシュし、大破したマシンを押しながらピットに帰還。合計2時間に及ぶマシン修復後八代がコースに復帰するが、19時30分のチェッカーまで忍耐のレースとなった。ヤマハ勢でも4時間を過ぎたころにFZRの上野真一がS字区間でクラッシュしマシンが大破。このため東コースでショートカットしピットに戻り、10周減算のペナルティを受けた。ホンダRVF勢の中では耐久スペシャリストチームのゼッケン1・コードレイが4位走行中の71周目にヘアピン手前でクラッシュ、ファクトリーマシンRVFは大破し、自らも右腕にダメージを受けリタイヤした。

ゼッケン21のヤマハ・FZRは速さを保ち続ける。中盤に入った66周終了時には、リヤタイヤ消耗が厳しかったガードナーが予定より30分早くピットイン、U.Sホンダ2号車に先を行かれ3位へと後退し、トップの21号車からは周回遅れとなった。ガードナーはタイヤ交換後ハイペースでロバーツを抜き返し同一周回に戻るが、その時のロバーツは不必要な争いを避けてガードナーをすんなりと先行させ、勝利を確実にするためのレースマネージメントを見せた。71周を終えた時点の2位ボールドウィンに対しては30秒以上のリードを作り、2度目の走行を終えたロバーツは平へと交代。平も2回目の走行をプラン通りに26秒台を崩さずマシンをいたわり、ボールドウィンから交代したD.サロンに対して30秒以上の差をキープした。96周目を終えると、平から3度目の走行となるロバーツへとチェンジ。この際に前後ともタイヤ交換作業をしたため、ボールドウィンとの差は7秒前後まで縮まったが、その後ニュータイヤのロバーツは24秒台を継続して毎周2秒づつ差を広げる。121周を終え5回目のピットインで平へと交代したとき、2位の2号車・D.サロンとの差は1分35秒となっており、スタートの失敗がなければ全車を周遅れにしていた可能性が高かった[1]

全体のレースペースは、灼熱の路面コンディションで2分25秒台をコンスタントに出したのはロバーツ、ガードナー、平、ボールドウィン、コードレイの5人で、時刻が16時を過ぎ肉体的な疲労が厳しくなる中でも23秒台にペースアップできるのはロバーツとガードナーの2人だけになっていた。ガードナーに至っては残り2時間を切ってもハイペースを緩めず、唯一2分22秒台で走行し2号車のD.サロンをパス、2位の座を取り戻した [20]

ゴールまで残り1時間となった18時30分にロバーツが2位ガードナーに約1分の差をつけたまま最後のピットイン、平へとライダーチェンジを完了する。ガードナーの後方は30秒差でUSホンダ・2号車のボールドウィンが3位、4位には予選11位から着実に上昇して来たヨシムラの15号車・クロスビー/シュワンツ組がRVFの阿部/木下組を抑えていた[21]

18時37分、ガードナーは最後のピットインで徳野へと交代せず、給油だけ済ませるとそのまま自分で21号車・平を追い続けることを選んだ。日没が迫りレースコントロールからライト・オンの指示が出る中、トップの平は26秒台で残り約40分を確実に走りぬくプランであり、2位ガードナーは日没後も24秒台で走り続けた。しかし、2台の差は1分20秒以上あり残り時間は35分、計算上は毎周5秒その差を詰めていく必要があり、ガードナーの逆転勝利は困難と思われた[1]

ホームストレートの電光掲示が残り33分を示した頃、「S字からダンロップコーナーに向かう付近で1台スロー走行」と場内アナウンスされた。すでに空が暗くなりナンバーを認識できない数秒が経過した後、「スロー走行は21番の平です、ヘアピンを今ゆっくりと通過、マフラーからは白煙が出ている」との場内実況が響くと、メインスタンドの観客のどよめきに包まれた[22]。平は自車のオイル流出の有無を確認しながらレコードラインを避けるようにスロー走行でホームストレートまで戻ってくると、ピット前のコンクリート壁にマシンを立てかけて完全にストップ[23]。発生したトラブルは、極限まで細く製作されていたエンジン内部のバルブが振動により疲労破壊されたバルブ折損だった[24][1]。5バルブはヤマハにとって大事な技術だったが[25]、ロバーツも事前テストで「1つ吸気バルブが多いことでアクセルレスポンス不足の原因になっている。4バルブじゃダメなのか?」と指摘したヤマハのこだわりが目前の勝利を逃す要因となった[26]。平は後のインタビューでトラブル発生の瞬間を、「後続との差も充分あるし、このままうまく行けるなと思っていた。全開のホームストレートから1コーナー進入での減速中にエンジンが異音を出した。次にクラッチをミートして加速した時にはエンジンが4気筒ではなく3気筒になっていた。1年間このために準備してきたエンジニアの気持ちもわかるし、トラブルは仕方がないです。」と述べた。平が乗っていた時のトラブル発生で勝利を逃したが、ロバーツは、「平のことはデイトナ200マイル(前年3月にアメリカで同じレースを走った。)での走りを見て知っていたし、パートナーとして何も問題はなかった。ただFZRは、インレットポートが大きすぎる点が問題になると感じていてヤマハに提言したけれど、ケニーには4ストロークエンジンのことはわからないだろうという雰囲気の中にもみ消されてしまったんだ。」と語っている[4]

ガードナーの勝利への執念、諦めないスピリットが実る形となったホンダRVF・3号車が勝利し、表彰台でのセレモニーで8耐初優勝の感動に襲われたガードナーは、インタビューマイクを通してチームスタッフへ最大限の感謝を述べ、涙が止まらなくなる一幕もあった[27]。なお、最終2スティントを連続して走ったガードナーは8時間全体の58%を自ら走破した[28]

27年後の2012年春、鈴鹿サーキット50周年の祝辞VTRで登場したガードナーはこの1985年の勝利を「自分のレースキャリアで最高の思い出のひとつ。あんなに長い時間を一生懸命に走り続けたレースはほかにないんだ。あの日から2週間は脱水症状が回復しなくて大変だったよ。でも最高の勝利だった。」と述懐している[29]。過酷な暑さのため後日体調を崩したという証言はケニー・ロバーツも翌1986年のインタビューで語っており、「'85年の8時間耐久は、ちょっと暑すぎた。日本の夏のレースは初めてだったし、脱水の影響でレース後1ヶ月くらい体調が悪かった。1986年の大会も出ると決まったとき、暑さ対策としてツナギもヘルメットももっと通風性を高めたものを用意しなければと思ったし、水分補給についても改善できると思った[30]。」と本大会の印象を述べている。

決勝結果

正式リザルト[31]
順位 No. チーム ライダー 使用車両 タイヤ 周回 タイム/リタイヤ グリッド
1 3 チームHRC ワイン・ガードナー 徳野政樹 ホンダ・RVF750 D 195 8:01'40.102 2
2 2 アメリカン・ホンダ マイク・ボールドウィン ドミニク・サロン ホンダ・RVF750 M 195 8:02'57.219 5
3 15 ヨシムラMOTUL ケビン・シュワンツ グレーム・クロスビー スズキ・GSX-R750 D 192 8:03'04.603 11
4 36 チームHRC 阿部孝夫 木下恵司 ホンダ・RVF750 D 192 8:04'14.678 7
5 5 S.E.R.T フランス パトリック・デ・ラディゲスドイツ語版 ジャン=ピエール・ウダンフランス語版 スズキ・GSX-R750 M 190 8:01'42.353 13
6 37 ヨシムラMOTUL 喜多祥介 辻本聡 スズキ・GSX-R750 D 190 8:02'59.622 6
7 4 S.E.R.T フランス エルブ・モアノー リカルド・ユービン スズキ・GSX-R750 M 190 8:03'10.252 8
8 19 スズキ・スウェーデン アンデルス・アンデルソン ペル・ヤンソン スズキ・GSX-R750 M 190 8:03'50.865 12
9 8 モリワキレーシング ロバート・フィリス ケビン・マギー モリワキ・ZERO X-7 D 189 8:01'55.087 9
10 39 チームグリーン 齋藤昇司 多田喜代一 カワサキ・GPZ750R D 188 8:04'02.610 21
11 61 ワンダーラビットRT 大塚茂春 上林康隆 スズキ・GSX-R750 D 185 8:02'00.478 24
12 46 OVERレーシング 藤本泰東 伊藤仲吉 ホンダ・CBX750F D 185 8:02'31.663 25
13 92 チームカナヤ 斉藤光雄 田村圭二 ヤマハ・FZ750 D 185 8:04'00.214 22
14 47 チームスガヤ 島田進 福島秀彦 スズキ・RG400Γ D 183 8:01'41.797 17
15 85 磐田レーシングファミリー 山本賢二 鈴木隆 ヤマハ・FZ750 D 183 8:01'52.116 30
16 38 チームグリーン 岡正弘 日下直一 カワサキ・GPZ750R D 183 8:01'56.452 27
17 21 資生堂ヤマハTECH21 RT ケニー・ロバーツ 平忠彦 ヤマハ・FZR750 M 182 エンジンバルブ 1
18 14 ヒューテック M.D.G トッド・ブルベーカー 佐藤邦彦 ホンダ・CBX750F D 182 8:02'07.895 45
19 98 モトスポーツアベ 阿部三吉 池田耕司 スズキ・GSX-R750 D 182 8:04'13.654 41
20 84 MSR with KISSレーシング 川端進 花村忠昭 ヤマハ・FZ750 D 180 8:02'09.980 42
21 52 NSTC & モトワーク 仲川昇 飯田岳雄 スズキ・GSX-R750 179 8:03'52.270 38
22 48 BEETレーシング 加藤裕之 佐藤正 カワサキ・GPZ750R D 179 8:04'51.561 54
23 57 FET GIURIO,ORC 松本憲明 新井亮一 ホンダ・CBX750F 178 8:01'50.817 53
24 34 鈴鹿レーシングチーム 荒木利春 篠田正樹 ホンダ・CBX750F 176 8:01'50.600 39
25 32 浜松チームタイタン 袴田利明 三味俊也 スズキ・GSX-R750 176 8:01'52.724 33
  • 決勝出走60台/完走39台

各種データ

併催レース

  • 7月27日 鈴鹿4時間耐久ロードレース

観客データ

  • チケット (3日間通し):大人 5000円(前売4500円)/小人 2500円(前売2200円)
  • 観客動員
    • 7月27日: 8万1000人
    • 7月28日:15万6000人(MFJによる発表)[32]

テレビ放映

  • CBC中部日本放送制作によるダイジェスト番組「'85鈴鹿8時間耐久オートバイレース 逆転のエピローグ」がTBS系列ネットで後日放送された。実況アナウンサー後藤紀夫、ナレーター古谷徹

映像ソフト

関連項目

脚注

出典

  1. ^ a b c d 「バッドラックに泣かされたヤマハワークス」『CWスペシャル 1985鈴鹿8時間耐久レース特集号』 CBS・ソニー出版、1985年9月10日、23頁。
  2. ^ 「キング・ケニー、鈴鹿8時間出場決定!」『ライディング No.183』MFJ日本モーターサイクルスポーツ協会、1985年7月1日、3頁。
  3. ^ 1985熱狂を生み出した“夢の共演” ヤマハ発動機 (2019年7月)
  4. ^ a b c 【鈴鹿8耐】“キング”ケニー・ロバーツ8耐出場のきっかけ「後戻りできなかった」インタビューその1 Response (2015年7月1日)
  5. ^ 「淡いブルーの挑戦者 TECH21カラーをまとったFZR」『ライディングスポーツ No.32』武集書房、1985年7月24日、13-14頁
  6. ^ ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1984年(前編):小手調べの参戦のつもりが、トップライダーを投入する事態に ヤングマシン 内外出版社 (2020年7月29日)
  7. ^ ワークス8耐レーサー YAMAHA FZR750[0W74]1985:テック21伝説の幕を開けた水冷直4ワークスレーサー ヤングマシン(2019年7月4日)
  8. ^ 「GPを見つめて 第7回 ヤマハ契約ライダー・河崎裕之」『グランプリ・イラストレイテッド No.19』 ヴェガ・インターナショナル、1987年4月1日発行、93-95頁。
  9. ^ 今年のヤマハはTECH21!!ヤマハ鈴鹿8耐の歴史を動画で振り返り 2019鈴鹿8耐スペシャルサイト (2019年5月22日)
  10. ^ かくして“TECH21”チームは走り出した。ヤマハ1985年鈴鹿8耐本番前の舞台裏 RACERS / AUTO SPORT (2024年12月11日)
  11. ^ 鈴鹿8耐マルチタイムウイナー マイク・ボールドウィン 鈴鹿8耐40周年スペシャルサイト (2017年7月8日)
  12. ^ 「U.S HONDA RVF750」『CWスペシャル 1985鈴鹿8時間耐久レース特集号』 CBS・ソニー出版、1985年9月10日、44頁。
  13. ^ 8耐を走った王者たちvol.5 ケビン・シュワンツ 鈴鹿8時間耐久レース公式特設サイト (2017年5月7日)
  14. ^ バイクブームの’80年代に人気だった「モリワキ・フォーサイト管」が復活!? ヤマハXSR900GP用を参考出品【東京モーターサイクルショー2025】 モーターファンweb (2025年4月12日)
  15. ^ 「空冷・直4・2本ショックで挑み続けたモリワキの戦い」『RACERS Vol.20 ザ・モリワキin1983-85』三栄、2013年3月25日、44頁。
  16. ^ 「飛翔・平忠彦インタビュー」『グランプリ・イラストレイテッド No.9』 ヴェガ・インターナショナル、1986年6月1日、23頁。
  17. ^ 「キング・ケニーのケタ外れの実力、ポール・トゥ・フィニッシュを期すキングの誇り」『CWスペシャル 1985鈴鹿8時間耐久レース特集号』 CBS・ソニー出版、1985年9月10日、80頁。
  18. ^ 1985スターティンググリッド 鈴鹿サーキット公式サイト (1985年7月27日)
  19. ^ スターが演じた悲劇鈴鹿8耐1985 ヤマハ編 ヤングマシン (2019年7月3日)
  20. ^ 「勝利に向かって激走する24秒台ペア」『CWスペシャル 1985鈴鹿8時間耐久レース特集号』 CBS・ソニー出版、1985年9月10日、62頁。
  21. ^ レースの歴史1985 ヨシムラジャパン (2025年5月22日閲覧)
  22. ^ 「世界耐久選手権第3戦 Suzuka 8 hours」『グランプリ・イラストレイテッド No.4』 ヴェガ・インターナショナル、1985年10月1日、60頁。
  23. ^ 【松屋正蔵が描く熱狂バイククロニクル】1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレース 枻出版社ライダースクラブ (2024年12月6日)
  24. ^ 話題騒然伝説のTECH21ってなんだ? Webオートバイ (2019年5月23日)
  25. ^ 革新のエポックマシン:ヤマハFZ750【世界初5バルブ】 ヤングマシン (2020年4月19日)
  26. ^ ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1985年(後編) オートスポーツweb (2020年8月6日)
  27. ^ 「世界耐久選手権第3戦 Suzuka 8 hours」『グランプリ・イラストレイテッド No.4』 ヴェガ・インターナショナル、1985年10月1日、32-33頁。
  28. ^ 「耐久レースを支配した4人のスプリンター」『CWスペシャル 1985鈴鹿8時間耐久レース特集号』 CBS・ソニー出版、1985年9月10日、20-21頁。
  29. ^ 50周年メッセージW.ガードナー 鈴鹿サーキット公式チャンネル (2012年5月1日)
  30. ^ 「Kenny Roberts Talks His Riding for the Suzuka 8h」『グランプリ・イラストレイテッド No.13』 グランプリ出版/ヴェガ・インターナショナル 1986年10月1日、70-71頁。
  31. ^ 1985決勝結果 鈴鹿サーキット公式サイト (1985年7月28日)
  32. ^ 「コカ・コーラ鈴鹿8時間耐久レース まさに、真夏の祭典」『ライディング No.185』MFJ日本モーターサイクルスポーツ協会、1985年9月1日、37頁。



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