ケシクとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:41 UTC 版)
詳細は「ケシク」を参照 千人隊制度はチンギス・カンの定めたもう一つの制度「ケシク制度」と密接な関係を有している。1206年、千人隊制度を整備したチンギス・カンは同時にケシクテン(親衛隊)の制度も再編し、規模を拡大して定員を1万人とした。更にチンギス・カンは「今、我が処に番直する侍衛を千戸、千戸より選びて入れよ」と語り、ケシクテンの構成員は千人隊長の子弟から選出するよう命じた。 カアンの側近く仕えるケシクはカアンの新衛軍であると同時に衣服・食事などの世話を行う家政機関でもあり、また幹部養成機関としての一面を有していた。次代のモンゴル帝国を担うと目される千人隊長の子弟はケシクテンに入ることで国家的庶務に携わり将来高官となるための教育を受け、同時にカアンとの信頼関係を構築した。 モンゴル時代に名を残した著名な高官・将軍の多くは祖先にチンギス・カンに任命された千人隊長を有するノヤンの出身で、若い頃にケシクに入って成長し、長じてケシクを離れて官職に就いている。 また、『モンゴル秘史』では1万のケシクが構成されていたと記すが、この内ケブテウル(宿営)は『集史』において「親衛千人隊(hezāre-ye buzurg)」或いは「チンギス・カン直属の千人隊(hazāra-ye khāṣṣ-i Chīnkkīz Khān)」と称される軍団に相当する。
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