キロヴァバード事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「キロヴァバード事件」の解説
1988年秋口にはアゼルバイジャン北西部のキロヴァバードでも民族対立が先鋭化し、アルメニア人は自らの家を離れてアルメニア本国へ避難することを余儀なくされていた。ソ連軍は市内のアルメニア人を暴力から保護するために進駐し、11月23日に戒厳令を発した。しかし同日には市の執行委員会庁舎がアゼルバイジャン人によって襲撃され、この際にアルメニア人を保護しようと出動したソ連兵のうち3人が衝突によって死亡し、その他67人の民間人が負傷した。 これについては、24日の時点で死亡者数は40人に上っており、その3分の1はアゼルバイジャン人であったという報告や、アルメニア人の死者だけで最大130人に上っているとの報告もある。25日にサハロフは、当局から得た情報では、アルメニア人側に130人以上の死者と2百人以上の負傷者が発生していると語ったが、ソ連外務省報道官のゲンナジー・ゲラシーモフ(ロシア語版)はその情報を否定している。後の回顧録で、サハロフも自身の述べた数字を撤回した。一方、ソ連当局は軍の活躍と地元当局の尽力によりキロヴァバードでの虐殺は防がれたとコメントし、犠牲者を総数7人、内訳がソ連兵3人、アゼルバイジャン人3人、アルメニア人1人であるとした。また、現場で取材を行っていたBBCのレポーターは、最低でも6人のアルメニア人が殺害されたと報告している。
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