キャノンズヒース時代(1863年 - 1867年)
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「ジョン・ポーター」の記事における「キャノンズヒース時代(1863年 - 1867年)」の解説
1863年、ゴーター調教師の下で働くポーターに新たな働き先を紹介してきた人物がいた。当時ゴーター厩舎に競走馬を預託していた有力者の一人、12代ウェストモーランド伯爵(英語版)である。 ビクトリア朝時代の有名な馬主でジョセフ・ホーリー卿(Sir Joseph Hawley)という人物がいた。当時すでにテディントン(Teddington)、ビーズマン(Beadsman)でのダービー2勝など、英国クラシック競走6勝のキャリアを有する馬主である。ホーリー卿は競馬を始めてすぐにハンプシャー州キャノンズヒース(Cannons Heath)に個人厩舎を開設していた。ホーリー卿は1から10まで自ら指図するタイプだった。そのホーリー卿の専属調教師として活躍していたジョージ・マニング調教師(George Manning)が1863年に没した。ウェストモーランド伯爵は、その後任にと、ホーリー卿にジョン・ポーターを推挙したのだった。 ホーリー卿はジョン・ポーターが若すぎると懸念したものの、年100ポンドの給与を支払う条件でポーターをキャノンズヒース厩舎の専属調教師に据えた。とはいえ、ホーリー卿は自ら厩舎のあらゆることを指図する人物だったので、専属調教師といっても実態は単なる馬丁扱いだったという。 このとき厩舎には12頭の競走馬がいた。そして専属騎手には、かつてのジョン・デイ厩舎での見習い騎手仲間だったジョン・ウェルズ騎手がいた。ポーターとウェルズ騎手のコンビは、1年目の1863年の秋のドンカスター競馬場でキャノンズヒース厩舎・ポーター調教師としての初勝利をあげた。 それからポーター調教師とウェルズ騎手によってキャノンズヒース厩舎はめざましい成績をおさめ、1867年までに英国のトップクラスの厩舎となった。たとえば1867年晩秋のニューマーケット競馬場の開催(Second October Meeting)では、2歳チャンピオン決定戦のミドルパークステークスで1・2着を独占し、さらに同じ開催でプレンダーガストステークス(Prendergast Stakes)、クリアウェルステークス(Clearwell Stakes)、王室賞(ロイヤルプレート)を勝っている。
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