カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴の意味・解説 

カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/10 05:27 UTC 版)

カ・レッツォーニコ」の記事における「カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴」の解説

宮殿19世紀持ち主目まぐるしく変わる。19世紀初期イエズス会大学として使われていたが、相続複雑さからPindemonte-Giovanelli家の手に渡る事になる。しかし1832年にPindemonte-Giovanelli家は宮殿調度品などを一切売却してしまい、その後1837年Ladislao Zelinsky伯爵手に入れる。1880年代にはイギリス詩人ロバート・ブラウニングの父である画家Robert Barrett Browning購入し一時期アメリカ画家ジョン・シンガー・サージェント1部屋を間借りしていた。その後Browning対し1906年ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)からLionello von Hierschel de Minerbi伯爵売却するよう依頼などもあったが、Browningはそれを無視しまた宮殿芸術拠点するべく浪費重ねたため、最終的にBrowning破産してしまう。1920年代にはアメリカ作曲家・作詞家コール・ポーター宮殿を月4000ドル借りていた事もあった。コール・ポーター50人もの給仕雇ったり、「宮殿をより輝く色使いにしたい」という理由綱渡り曲芸一団雇ったりしていた。そして1935年長い交渉の末、宮殿ヴェネツィア持ち物となり、18世紀ヴェネツィア芸術コレクション展示する美術館となる事が決定したその後数々絵画彫刻集まりヴェネツィア屈指の美術館となっている。

※この「カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴」の解説は、「カ・レッツォーニコ」の解説の一部です。
「カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴」を含む「カ・レッツォーニコ」の記事については、「カ・レッツォーニコ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴」の関連用語

カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カ・レッツォーニコの持ち主の遍歴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカ・レッツォーニコ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS