カルロ・エマヌエーレ3世、イタリア戦役を再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 17:33 UTC 版)
「ピアチェンツァの戦い」の記事における「カルロ・エマヌエーレ3世、イタリア戦役を再開」の解説
1745年12月25日、プロイセン王国とオーストリアの間でドレスデン条約が締結された。条約は主に大陸ヨーロッパの事項について扱ったが、イタリア戦役にも多大な影響を及ぼした。すなわち、ドイツ戦役が終結したことでオーストリア軍の大半をイタリアに振り向けることができた。フランスとスペインはとりたてて行動を起こさず、カルロ・エマヌエーレ3世はオーストリア軍の増援に連合軍が敵うはずもないと考えた。 フランスとの交渉はまだ続いていたが、オーストリアとの同盟を継続した方が有利であると考えたカルロ・エマヌエーレ3世はオーストリアの増援が来るまで時間を稼ごうとした。それを最も簡単に行うやり方は交渉を引き延ばすことだった。そのため、彼はフランス宮廷に2月までに合意を形成できなければ戦闘を再開する旨を告知した。またフランスにアレッサンドリアの包囲を解くよう要求した。そして、フランスは驚くほどの善意を示して2月17日に包囲を解いた。 しかし、3月1日に期限が来た時にはオーストリア軍はすでに集結しており、カルロ・エマヌエーレ3世はこれを戦争再開の好機であると考えた。サルデーニャ軍はアスティとアレッサンドリアのフランス駐留軍に向けてゆっくりと進軍、3月5日にアスティを攻撃して3日後にアスティ駐留軍5千人を降伏させた。
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