カランタニアと中世の王朝
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「ケルンテン公国」の記事における「カランタニアと中世の王朝」の解説
7世紀、ケルンテンの地はスラヴ系のカランタニア公国の一部、のちに788年から843年までカール大帝の帝国の一部であった。843年、帝国の分割で、ルートヴィヒ2世が治める東フランク王国に属した。889年から976年まで、バイエルンのケルンテン辺境伯領となったが、辺境伯ベルトルトは既に東フランク王ハインリヒ1世によって公の地位を与えられていた。ベルトルトが938年にバイエルン公となると、バイエルンとケルンテンの両公国は一人の公によって支配された。 976年、神聖ローマ皇帝オットー2世は、バイエルン公ハインリヒ2世を退位させた。そして帝国内に第6の公国として、バイエルン公国からケルンテン公国を分割した。新設されたケルンテン公国はハインリヒ3世に授けられた。そしてシュヴァーベン公オットー1世にはバイエルン公国が与えられた。995年、エッペンシュタイン家出身のアダルベロ1世がケルンテン辺境伯に、1012年にはケルンテン公となった。彼は1035年に地位から追われた。1077年、公国はエッペンシュタイン家のリウトルトへ与えられた。しかし、エッペンシュタイン家は1122年のケルンテン公ハインリヒ3世の死で断絶した。当時、公国は相当に領土を減らしていた。現在の上シュタイアーマルク(Obersteiermark オーバーシュタイアーマルク)の大半が、シュタイアーマルク辺境伯オットカール2世の元へ渡っていたのである。ケルンテンにとどまっていた領土は最後のエッペンシュタイン家の公ハインリヒ3世から、彼の養子ハインリヒ4世(シュポンハイム家出身)へ継承された。彼は1122年から翌年に早世するまで治めた。最も傑出したシュポンハイム家の公はベルンハルトである。彼は、文書の中では『当地の第一人者』と実際に記述され、賞された人物であった。シュポンハイム家最後のウルリヒ3世は従兄弟にあたるボヘミア王オタカル2世を後継者に選んだ。シュポンハイム家最後の人物であったザルツブルク大司教フィリップは公になろうと試み、ハプスブルク家のルドルフ1世の支援を得たが、オタカルをうち破ることはなかった。フィリップは1279年に死んだ。
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