オン・カンの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:11 UTC 版)
1200年、オン・カンとテムジンはモンゴル部のタイチウト氏族を攻撃するためサアリ平原で会見した。同盟軍はタイチウト氏族へ攻撃を仕掛け、その首領クドダルとタルグタイ・キリルトクを破り、ウレンウト・トラスという地で捕えて殺した。その冬、オン・カンの弟ジャカ・ガンボと4人のケレイト部将がオン・カンを殺害しようと企てていたが、オン・カンに知られたため、ジャカ・ガンボたちはナイマン部へ逃亡した。 1202年、テムジンとオン・カンはタタル部を討ち、続いてメルキト、ナイマン、タタル、ドルベン、カタキン、サルジウト、オイラト連合軍を討った頃、流浪の末ジャムカがオン・カンを頼ってきた。テムジンは敵対するジャムカを匿ったオン・カンを非難し、ジャムカはイルカ・セングンを言いくるめてテムジンを殺そうとした。 1203年、遂にテムジンとケレイトとの間で戦闘が起き、両者は完全に不和となった。秋、テムジンはオン・カン父子をチェチェエル・ウンデュル山のふもとで奇襲し、激戦の末オン・カンは敗走し、ナイマン部の領土を通過した際、オン・ウスンという地でナイマンの国境警備の将校によって殺された。国境警備の将校らはその首をナイマン王に送ったが、ナイマン王はオン・カンを殺したことに怒り、そのどくろを銀の器の中に入れて保存した。息子のイルカ・セングンはブリ・トベット地方へ亡命できたが、しばらくして彼の略奪行為がこの地方の住民の憎悪をかきたてたので、カシュガルとホータンの諸州に隣接するクーシャーン地方へ逃れたが、クサト・チャル・カシュメという地で捕えられてそこの領主カラジ族のスルターン・キリジ・カラによって処刑された。 こうしてケレイト部族はテムジンのモンゴル部族によって征服された。
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