オランダへの抵抗運動と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/13 17:46 UTC 版)
「シシンガマンガラジャ12世」の記事における「オランダへの抵抗運動と死」の解説
1878年にバタックの宗教会合でオランダの植民地支配に対する抵抗組織を結成した。1904年にシシンガマンガラジャ12世のゲリラがトバ湖周辺のタナ・ガヨなどにあるオランダ軍施設を襲撃するが、オランダ軍の反撃に遭い敗北している。シシンガマンガラジャ12世はアチェの支援を得て組織を再編し、1883年から1884年にかけて各地のオランダ軍施設を攻撃した。これに対し、オランダ軍はシシンガマンガラジャ12世に従うバタック人に重税を課し、さらに協力者の家を焼き打ちした。また、シシンガマンガラジャ12世の居場所の情報を提供した者に報奨金を出すと通告したが、捕縛することは出来なかった。 1904年、ゴトフリート・ファン・ダーレン(英語版)率いるオランダ軍はトバ湖周辺のバタック人ゲリラを攻撃したが、シシンガマンガラジャ12世は逃亡に成功した。人員と武器を増強したハンス・クリフトフェル率いるオランダ軍は1907年にバタック人の残党に対して攻撃を開始した。シシンガマンガラジャ12世は6月17日に行われたダイリの戦闘で娘ロピアン、息子パトゥア・ナグリ、パトゥア・アンギと共に戦死した。遺体はタルトゥンに埋葬された後、サモシール島に改葬された。
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