エジプト第10王朝とは? わかりやすく解説

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エジプト第10王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/13 06:29 UTC 版)

エジプト第10王朝(エジプトだい10おうちょう、紀元前2130年頃 - 紀元前2040年頃?)は、エジプト第1中間期古代エジプト王朝。ヘラクレオポリス古代エジプト語:ヘウト・ネンネス Hwt-nen-nesu[注釈 1])を拠点にエジプト全域に勢力を拡大した第9王朝の地位を継承したが、南部ではテーベ[注釈 2](古代エジプト語:ネウト)侯が第11王朝を建てており、エジプトの支配権を巡ってこれと争った。


注釈

  1. ^ 後のヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフギリシア人ハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
  2. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
  3. ^ アシュートはアラビア語名。ギリシア語ではリュコポリスと呼ばれた。この都市は上エジプト第13県の首都であった。
  4. ^ 『メリカラー王への教訓』のうち最もまとまって現存するのは第18王朝時代のものと見られる写本である。末尾に、書記カエムワセトが自分と彼の兄弟の書記メフのために写したという付記がある。主要なテキストはサンクトペテルブルクエルミタージュ美術館に保存されているものであり、かなりの欠損があるが、他に発見されている断片からある程度復元することができる。全文の日本語訳が『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に収録されている。なお実際にケティ3世が表したものかどうかについては確実とはいえない。メリカラーが即位後に記述させて自らの権威付けに用いたという説や、当時の高官が残したという説も存在する。しかし第10王朝時代に形成された文書であると見られている
  5. ^ ヘルモポリスは上エジプト第15県の首都であった。

出典

  1. ^ スペンサー 2012, p.44
  2. ^ 屋形ら 1998, p.422
  3. ^ a b 屋形ら 1998, p.423
  4. ^ a b フィネガン 1983 p.262
  5. ^ 内容については『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』を参照。要約はフィネガン 1983 p.263 を参考にした。
  6. ^ フィネガン 1983 p.263


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