エジネ・トルグート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
チベットからハーン号を授かったアユーキは全オイラト統合の意図を持っていたため、1698年に従兄弟のアラブジュルを団長とする大使節団をチベットに派遣した。しかし、アユーキと対立していたアユーキの息子サンジブが自分の領民1万5千家族を連れてジューンガルのツェワンラブタンのもとに附き、それに伴っておよそ6万人の遊牧民がトルグート部からジューンガル部へ移った。そのため、軍事的にも政治的にもツェワンラブタンの勢力が優勢になり、アユーキはジューンガル制圧と全オイラト統合をあきらめざるを得なくなった。 一方、チベットに派遣されたアラブジュルはダライ・ラマを訪問して帰国しようとしたところ、ツェワンラブタンとアユーキの間が不和になったため、ジューンガルを通過できなくなった。アラブジュル一行は、やむなく清朝皇帝を頼って嘉硲関(かよくかん)外に牧地を与えられた。彼らのトルグート部は、1731年にエジネ河畔に牧地を移されたため、エジネ・トルグートとよばれるようになった。
※この「エジネ・トルグート」の解説は、「トルグート」の解説の一部です。
「エジネ・トルグート」を含む「トルグート」の記事については、「トルグート」の概要を参照ください。
- エジネトルグートのページへのリンク