エキシビジョンと松山の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 05:41 UTC 版)
「桂マサ子」の記事における「エキシビジョンと松山の死」の解説
1953年の世界大会の後、桂と松山はカリフォルニアのロングビーチでエキシビジョンを行った。100ポイントのボークライン、40ポイントのスリークッション、トリックショットが行われた。桂はボークラインで100対11、100対3と師匠を打ち負かしたが、3クッションでは40対34、40対39と2試合とも松山が勝った。その後松山は日本に戻り、1953年12月20日に死んだ。松山はアメリカ市民権を取って家族と共にハワイのホノルルでビリヤードパーラーを開くつもりだった。松山は生徒に数多くの日本のトッププレーヤーを持っており、桂もその一人だった。 桂は1953年3月12~17日、サンフランシスコでレイ・キルゴアとのエキシビジョンマッチを組んだ。試合は600ポイント制のスリークッションだった。試合は600対547でキルゴアが辛くも勝った。試合後キルゴアは「彼女は本当にすばらしい」と語っている。翌週、桂はコクランとエキシビジョンを行い、45イニングで50対33で破っている。
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