インノケンティウス3世との対立と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:47 UTC 版)
「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「インノケンティウス3世との対立と失脚」の解説
即位前に教皇と交わした数々の誓約を遵守する意思は、オットーにはおそらく皆無であった。ローマを発ったオットーは北に進み、11月20日にピサに到達する。ピサで出会ったアチェッラ伯ディーポルト(英語版)らシチリア王国に臣従するアプーリアの封建貴族からの嘆願を受けて、オットーはシチリア遠征を決定する。 アンコーナとスポレートからは教皇の軍隊が追放され、2つの町は帝国の領地として編入された。そして、オットーはハインリヒ6世の遺児であるシチリア王フリードリヒ2世に臣従を誓うことを求め、フリードリヒが要求を拒むと彼に領地の没収を宣告した。オットーはローマに進軍し、インノケンティウス3世にヴォルムス協約の取り消しと聖職者の叙任権の付与を要求した。 1210年11月にオットーはフリードリヒ2世が支配するシチリア王国の遠征に向かう。インノケンティウス3世はオットーの振る舞いに激怒し、11月18日にオットーに破門を宣告した。シチリア遠征が実施されたころ、ローマ帝国の諸侯たちはよりオットーへの不満を募らせていた。抗争の間も教皇側から交渉の申出があったが、勝利を確信していたオットーは妥協を示さず、インノケンティウス3世は反ヴェルフ派の諸侯に新たなローマ王の選出を認める。1211年、オットーがマインツ大司教、マクデブルク大司教らの諸侯とともに南イタリアに駐屯していたころ、インノケンティウス3世の承認とフランス王フィリップ2世の支援を受けた諸侯がニュルンベルクでフリードリヒ2世を新たなローマ王に選出した。
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