イラクへの移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:20 UTC 版)
先述の虐殺を逃れた難民のためにイギリス軍がメソポタミア(現イラク)のバアクーバに難民キャンプを設けた後、1927年に北部キルクークで発見された油田の開発と軍事戦略に不可欠として、彼らは当時この地域を委任統治していたイギリスの手により、キルクークや中部ラマーディー近郊のハッバニーヤ(Habbaniyah)に集められ、結果としてアッシリア人はクルディスタンに住み着くこととなった。さらに彼らの一部はイラク人部隊として、英軍の指導によりアラブ人やクルド人の反乱を鎮圧するために利用され、そのまま英国側についたがために再び難民として国外へ流れ出した。 戦後メソポタミアの地に留まったアッシリア人は、英国カンタベリーにて神学を修めた後帰国した総主教に率いられ、北メソポタミアでアッシリア人ロビーを形成。国際連盟にはメソポタミアでの自治権を要求したが承認されず、トルコ共和国には先述の虐殺の謝罪と賠償を求める活動を行ったが頑なに拒否された。
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