甲 (頭足類)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/09 22:34 UTC 版)
(イカの)甲(こう、英: sepion, cuttlebone)は、頭足類(とくにコウイカ類)が持つ、外套膜背面の中にある内在性の殻である[1][2]。オウムガイの持つ貝殻と相同であると考えられており[3][4]、貝殻(かいがら、shell)とも呼ばれる[5][6]。動物の餌などでは英語読みのカトルボーン(カットルボーン)とも呼ばれる[7]。
ヤリイカやアオリイカ、スルメイカなどのツツイカ目では殻はさらに退化して石灰質を失い、殻皮質(コンキオリン、conchiolin)のみからなる構造、軟甲(なんこう、gladius、グラディウス)となった[3][8][2]。軟甲は俗に「イカの骨」と呼ばれることもある[5][9]。タコ類の大半では消失しているが[3][2][4]、棒状かU字状、H字状をしている軟骨質のスタイレット[10][11](棒状軟骨、stylet[12])と呼ばれる構造をもつものも存在する[13]。
構造と機能
甲
浮力器官として働く[14]、多室性の石灰質殻体である[3]。このそれぞれの室は気室(きしつ)と呼ばれ、隔壁(かくへき、septa)によって区切られる[15]。気室が連なった構造を房錐(ぼうすい、phragmocone、フラグモコーン)または気房(きぼう、air chamber)という[15]。
コウイカ科では、甲は外套膜内の背側にある[1][16]。炭酸カルシウム(方解石)の結晶からなる[17]。甲の後端に棘(spine[6]、rostrum[18])をもつ。
多孔質で、甲に液体を出し入れすることによって浮力の調整を行っている[17]。最大気孔率は 93 vol%[19]。高い多孔性を持ちながら、高い曲げ剛性、圧縮強さなどの多機能特性を有する自然物である[20]。
軟甲
軟甲は、体を水力学的に安定させるための指示骨格として機能していると考えられる[17]。
起源
頭足類の祖先は、単板類の一群から進化したと考えられている[21]。まず周囲の海水より低張な液体を貝殻の内部に分泌することで体を軽くし、次の段階で殻の成分と体液の分泌を交互に行うことで密閉された小室を作り出し、さらにそれを貫くように肉質の細い管を発達させて気体へと置換することで、海水中を遊泳できる浮力体となる殻を手に入れた[21]。
アンモナイトなどの化石頭足類の大半は、外殻性の石灰質の殻を有していた[2][3]。特に古生代には、直錘形や螺旋形の貝殻(外殻)を持つ頭足類が繁栄した[3]。現生種でも、オウムガイ類は外殻性の多室の石灰質殻体を持つ[2]。
現生の鞘形類は、ジュラ紀初期のフラグモテウティス目 Phragmoteuthida に起源すると考えられている[22]。鞘形類の系統では外殻性の貝殻を欠き、内殻性の貝殻も退化または消失する方向に進化が進んだ[2][3]。この貝殻の喪失は、体色変化による隠蔽、墨の利用、ジェット推進による遊泳、強い腕や顎の獲得などと関連していると考えられている[23]。
三畳紀から白亜紀にみられるベレムナイト目では、方解石でできた鞘状の内殻を持っていた[3]。
房錐を保持したまま8本の腕と2本の触腕の配置を急速に獲得した系統は、十腕類になったとみられる[22]。そのうちプレシオテウティス Plesioteuthis などのグループは、遅くとも上部ジュラ系までには房錐を失い、例えばアカイカ属 Ommastrephes などの現生のイカとほぼ見分けがつかない軟甲を発達させた[22]。このグループは現生の開眼類になった[22]。もう一つのグループでは、房錐は甲に特殊化し、現在のコウイカ類につながる[22]。上部ジュラ系から知られている、前甲 (pro-ostracum) の側方の「翼」を保持しているトラキテウティス Trachyteuthis の甲が典型的である[22]。コウイカ目では、連室細管から腹側の部分が消失して後端の太い石灰質の棘状となった[8]。コウイカ類の甲は第三紀以前の化石記録がないため、軟甲の進化よりも後の新生代に獲得したと考えられることもある[2]。トグロコウイカは、石灰質で内殻性の螺旋状の貝殻を持つ[2]。
人間との関わり
しばしば海岸に流れ着き、ビーチコーミングで採集される[17]。
その昔、イカの甲は磨き粉の材料となっていた。この磨き粉は歯磨き粉や制酸剤、吸収剤に用いられた。今では飼い鳥やカメ、シマリスなどに与えるカルシウム・ミネラルサプリメントに使われる[24][7][25]。インコの嘴を研ぐためにペットショップで売られることもある[17]。
イカの甲は高温に耐え、彫刻が容易であることから、小さな金属細工の鋳型にうってつけであり、速く安価に作品を作成できる。
イカの甲は「烏賊骨」という名で漢方薬としても使われる。内服する場合は煎じるか、砕いて丸剤・散剤とし、制酸剤・止血剤として胃潰瘍などに効用があるとされる。外用する場合は止血剤として、粉末状にしたものを患部に散布するか、海綿に塗って用いる[26]。
西洋でインクのにじみを止めるために紙に振りかけたにじみ止め粉に使用された[27]。
脚注
- ^ a b 瀧 1999, p. 366.
- ^ a b c d e f g h Bonnaud et al. 2006, p. 139.
- ^ a b c d e f g h 棚部 2023, p. 233.
- ^ a b 上島 2000, p. 183.
- ^ a b 土屋 2002, p. 6.
- ^ a b 奥谷ほか 1987, pp. 27–28.
- ^ a b 石森礼子『手乗り鳥の医・食・住』2005年、123頁。
- ^ a b 瀧 1999, p. 333.
- ^ 奥谷喬司『イカはしゃべるし、空も飛ぶ』講談社〈ブルーバックス〉、2009年、37頁。ISBN 978-4-06-257650-5。
- ^ 奥谷 2013, p. 2.
- ^ スターフ 2018, p. 197.
- ^ 瀧 1999, p. 336.
- ^ 佐々木 2010, p. 149.
- ^ 棚部 2023, p. 232.
- ^ a b スターフ 2018, p. 65.
- ^ 土屋 2002, p. 13.
- ^ a b c d e 土屋 2002, p. 84.
- ^ 広島大学生物学会 1971.
- ^ Yang, Ting; Jia, Zian; Chen, Hongshun; Deng, Zhifei; Liu, Wenkun; Chen, Liuni; Li, Ling (2020-09-22). “Mechanical design of the highly porous cuttlebone: A bioceramic hard buoyancy tank for cuttlefish” (英語). Proceedings of the National Academy of Sciences 117 (38): 23450–23459. doi:10.1073/pnas.2009531117. ISSN 0027-8424. PMC 7519314. PMID 32913055 .
- ^ Cadman, Joseph; Shiwei, Zhou; Yuhang, Chen; Wei, Li; Appleyard, Richard; Qing, Li (2010). “Characterization of cuttlebone for a biomimetic designof cellular structures ”. Acta Mechanica Sinica 26 (1): 27–35. ISSN 0567-7718 .
- ^ a b スターフ 2018, p. 64.
- ^ a b c d e f Donovan, D. T. (1977). “Evolution of the Dibranchiate Cephalopoda”. Symp. zool. Soc. Lond. (38): 15-48.
- ^ 佐々木 2010, p. 175.
- ^ Norman, M.D. & A. Reid 2000. A Guide to Squid, Cuttlefish and Octopuses of Australasia. CSIRO Publishing.
- ^ 大野瑞絵、三輪恭嗣『シマリス完全飼育:飼育管理の基本、生態・接し方・病気がよくわかる』2022年、89頁。
- ^ 『改訂版 汎用生薬便覧』日本大衆薬工業協会 生薬製品委員会 生薬文献調査部会、2004年、72-75頁。
- ^ pounce コリンズ英語辞典
参考文献
- Bonnaud, L.; Lu, C.C.; Boucher-Rodoni, R. (2006-09). “Morphological character evolution and molecular trees in sepiids (Mollusca: Cephalopoda): is the cuttlebone a robust phylogenetic marker?”. Biological Journal of the Linnean Society 89 (1): 139–150. doi:10.1111/j.1095-8312.2006.00664.x.
- 上島励(著)「21. 軟体動物門」。白山義久(編)『無脊椎動物の多様性と系統(節足動物を除く)』裳華房、169–192頁。ISBN 4785358289。
- 奥谷喬司、田川勝、堀川博史『日本陸棚周辺の頭足類 大陸棚斜面未利用資源精密調査』社団法人 日本水産資源保護協会、1987年。
- 奥谷喬司(著)「第1章 タコという動物 ——タコQ&A」。奥谷喬司(編)『日本のタコ学』東海大学出版会、2013年6月5日、1–28頁。ISBN 978-4486019411。
- 佐々木猛智『貝類学』東京大学出版会、2010年8月10日。ISBN 978-4-13-060190-0。
- ダナ・スターフ『イカ4億年の生存戦略』和仁良二(監修)、エクスナレッジ、2018年7月2日。 ISBN 978-4-7678-2499-4。
- 瀧巌(著)「第8綱 頭足類」『動物系統分類学 第5巻上 軟体動物(I)』内山亨・山田真弓 監修、中山書店、1999年1月30日、327–391頁。ISBN 4521072313。
- 棚部一成 著「頭足類」、日本古生物学会 編『古生物学の百科事典』丸善出版、2023年1月30日、232–233頁。 ISBN 978-4-621-30758-8。
- 土屋光太郎(著)『イカ・タコガイドブック』山本典瑛・阿部秀樹(写真)、株式会社阪急コミュニケーションズ、2002年4月27日。ISBN 978-4-484-02403-5。
- 広島大学生物学会(編)、1971年9月22日『日本動物解剖図説』池田嘉平・稲葉明彦 監修、森北出版株式会社。
関連項目
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