イオニア諸島の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/13 03:44 UTC 版)
「フランス領イオニア諸島」の記事における「イオニア諸島の状況」の解説
イオニア諸島はギリシャのどこともちがう雰囲気を持つ地域であるが、これはヴェネツィア、イギリスなど西欧諸国の雰囲気をかもし出している。これはギリシャ本土がオスマン帝国に占領されていた時代、ヴェネツィア(1386年 - 1797年)、フランス(1797年 – 1800年)、ロシア、オスマン帝国による共同統治(イオニア七島連邦国)(1800年 – 1807年)、フランス(1807年)、イギリス(1809年 – 1810年、1814年 - 1864年)と様々な国の統治を受けてきたためであり、特にケルキラ島はギリシャ人にとっての西欧へのとびらであり、西ヨーロッパの文化、思想はケルキラ島を通じてギリシャへ流れ込んでいた。 特にヴェネツィア支配下の時代、ケルキラ島を中心にブトリント、パルガ、プレヴェザ、ヴォニツァの4つの町が連携してヴェネツィア風の議会を通じて自治を行なっており、島に住む人々はヴェネツィアによる支配におおむね満足していた。
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