アーカンソーと更に西方での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/07 07:17 UTC 版)
「シクウォイア」の記事における「アーカンソーと更に西方での生活」の解説
自分の音節文字が1825年に部族によって受容された後、シクウォイアは徒歩でアーカンソー州の新しいチェロキー領地に向かった。そこで彼は鍛冶屋を始めた。彼は自分の所に来る者には誰彼かまわずチェロキー文字を教え続けた。1828年、シクウォイアはインディアン準州の土地に関する協定を交渉するため、ワシントンD.C.への長い旅を行なった。 この旅は、周辺に住む別の部族の代表者と接触する機会を彼にもたらした。これらの会見で、彼はより汎用的な(チェロキーに限らない全てのインディアン部族が使用できる)音節文字を作り出すことを決意した。それを念頭に置き、シクウォイアは現在のアリゾナ州およびニューメキシコ州にあたる地方へ、そこの部族を調査するために訪れた。 さらに、シクウォイアは分裂したチェロキー・ネイションを再統合させようと夢想していた。1843年から45年の間、彼はメキシコに移ったチェロキーを探す旅の途中で死亡した。彼の埋葬された場所はメキシコとテキサスの国境付近だと考えられている。チェロキー・ネイションの首長J・B・ミリアム (J. B. Milam , 1884-1949) はメキシコでシクウォイアの墓を探す遠征に資金を提供した。チェロキー族と、非チェロキーの学者からなる一隊が1939年1月にテキサス州イーグル・パス (Eagle Pass) から出発した。彼らはメキシコ・コアウイラ州のある泉の近くで墓の跡を見つけたが、それがシクウォイアのものであるかどうかは確定することができなかった。 シクウォイアはチェロキーの想像の中に崇高な地位を確立した。民族誌学者ジャック・キルパトリック (Jack Kilpatrick) は次のように書いている。「シクウォイアは常に荒地にいた。彼はあちこちを歩いた。しかし彼は狩人ではなかった。私は、彼が何を探していたのだろうかと不思議に思う。」 彼が1829年から44年の間に住んでいた小屋 (Sequoyah's Cabin) はオクラホマ州に建っており、1965年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。
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