アレテューサ (水雷艇)とは? わかりやすく解説

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アレテューサ (水雷艇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/04 09:49 UTC 版)

アレテューサ
改修後に識別記号「F 556」を与えられてイタリア海軍で運用中のアレテューサ
基本情報
建造所 アンサルドイタリア語版セストリ・ポネンテイタリア語版
運用者
艦種 水雷艇(1938年-1953年)
コルベット(1953年-1958年)
級名 スピカ級アルチオーネグループ
艦歴
起工 1936年10月29日
進水 1938年2月9日
就役 1938年7月1日
退役 1958年8月1日
最期 解体
要目
基準排水量 670 t
常備排水量 975 t
満載排水量 1050 t
全長 81.42 m
最大幅 7.9 m
吃水 3 m
主缶 ボイラー 2基
主機 ギアード蒸気タービン 2基
出力 19,000 shp (14,000 kW)
推進器 2軸スクリュー
速力 34 kn (63 km/h)
航続距離 1910 カイリ(15 ノット)
乗員 士官6名、下士官以下110名
兵装 OTO 100/47 M1937砲イタリア語版 x3
ブレダM1931 13.2mm機関銃 x8(2連装x4)
450 mm 魚雷発射管 x4
爆雷投射機 x2
機雷 x20
その他 識別記号:AU(イタリア王立海軍)
F 556(イタリア海軍)
就役に関するデータ
データは主に下記より引用
RegiamarinaWarships 1900-1950Trentoincina および Guide Compact DeAgostini – Navi e velieri
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アレテューサAretusaアレトゥーサ)はイタリア王立海軍スピカ級水雷艇で、のちにイタリア海軍コルベットとして運用された。

艦歴

就役してすぐにアウグスタの指揮学校部傘下の第1水雷艇戦隊に配属され、1939年にリビア海軍最高司令部傘下の第12水雷艇部隊に転属した。

第二次世界大戦

イタリアが第二次世界大戦に参戦した時には、アレテューサは同型艦のアルチオーネアイローネおよびアリエールとともにメッシーナを拠点とする第1水雷艇戦隊を構成していた。同部隊はエーゲ海および北アフリカと行き来する護送船団の護衛任務についていた[1]

1940年7月29日、アレテューサと第1戦隊の他の3隻はナポリからベンガジへと向かう蒸気客船マルコ・ポーロ、武装商船チッタ・ディ・パレルモイタリア語版およびチッタ・ディ・ナポリイタリア語版からなる船団による「トランスポルト・ヴェローチェ・レント」作戦の護衛(第13戦隊の水雷艇チルチェクリオイタリア語版クリメーネイタリア語版チェンタウロイタリア語版)を増強するために派遣された[2]

1940年9月5日から6日の夜間、アレテューサは同型艦アルチオーネ、アリエールおよびアルタイルイタリア語版とともにバレッタ海域に機雷56発からなる機雷原を敷設した[3]

同年の10月31日から11月1日にかけて、アンドロメダイタリア語版アンタレスイタリア語版アルタイルイタリア語版およびアレテューサはケルキラ島上陸作戦で「海軍特別部隊」を支援することになっていたが、この作戦は艦艇が基地を出発した直後に中止され、旧式巡洋艦2隻、旧式駆逐艦2隻、旧式水雷艇11隻、補助巡洋艦4隻、揚陸艇3隻、MAS4隻に乗った上陸部隊の兵士たちは、そのままそれらの艦艇でヴロラへと運ばれた[4]

1941年に、威力不足となった13.2mm機関銃を撤去して8門の20/65mm機関砲に置き換える改修が行われた[5]。また、追加の機雷投射機2基が搭載された[6]

1月2日、アレテューサはドゥラスへ向かう蒸気船アルバーノとカテリーナを護衛するためにヴロラを出港したが、同日の15:49にアルバーノが目的地から10分の地点で触雷して沈没した。アレテューサは蒸気船に搭乗していた40名のうちの35名を救助した[7]

5月4日、アレテューサ、アルタイルおよびアンタレスは、補助巡洋艦バルレッタとともにブリンディジを出港し、ケファロニア島アルゴストリに上陸したイタリア遠征軍の船団を護衛した[3]

7月22日にアレテューサは対潜戦を実施したが、戦果は確認されなかった[1]

11月29日、アレテューサは水雷艇ペガソイタリア語版とともに油槽船ヴォルトゥルノを護衛してベンガジに向かうためにピュロスを出港したが、同日中にヴォルトゥルノがマルタ空軍の攻撃で損傷したためピュロスに引き返すことになった[8]

12月13日から14日にかけての夜にアレテューサと同型艦のリンチェイタリア語版は、《M 41》輸送作戦中にイギリスの潜水艦からの魚雷攻撃で損傷してターラントに帰還する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを護衛する駆逐艦ヴィヴァルディイタリア語版ダ・ノーリアヴィエーレジェニエーレカラビニエーレおよびカミチア・ネーラに合流すべく派遣された[9]

1942年1月3日の15:00に、戦艦ジュリオ・チェザーレの最後の作戦任務に就く《M 43》作戦の護衛の一端として、としてアレテューサはカストーレイタリア語版オルサイタリア語版アンタレスイタリア語版、新型内燃機船モンヴィーゾおよび大型の内燃機油槽船ジュリオ・ジョルダーニとともにターラントからトリポリに向けて出航した。船団は1月5日に無傷で目的地に到着した[10]

1月31日に新たな対潜戦を実施したが、戦果は確認されなかった[1]

2月5日に水雷艇オルサとともにサン・ヴィート岬沖で内燃機油槽船ロンディーネの攻撃に失敗した潜水艦を攻撃した[11]

3月7日から9日にかけて、《V 5》作戦の一端としてリビアに向かう3つの護送船団の護衛に就くはずだったが、駆逐艦シロッコと交代した[12]

3月12日に潜水艦を攻撃したが、確実な戦果は確認できなかった[1]

同年6月23日にアレテューサとアンタレスは、ベンガジへの公開中に雷撃機からの攻撃で損傷し、水雷艇オルサに曳航されつつタグボートのガリアルド、プルート、ファウナおよびポルトフェッライオに支援されてターラントに戻る内燃機船マリオ・ロセッリを護衛する駆逐艦トゥルビネイタリア語版と水雷艇パルテノーペイタリア語版を支援した[13]

10月17日に水雷艇オルサ、内燃機船モンジネヴィロとともにブリンディジを出港し、駆逐艦アヴィエーレジェニエーレおよびカミチア・ネーラに護衛されて航海してきた内燃機船アンカラと合流し、翌日には護衛を増強するために駆逐艦アルピーノが追加された[14]。航海の最後に向けて船団は分割し、他の艦船がベンガジに向かう一方、アレテューサはアルピーノ、アンカラ、オルサとともに2回の雷撃機による攻撃にも無傷でトブルクに到着した[14]

11月30日の午後11時、水雷艇ルポアルディートイタリア語版およびサジッターリオイタリア語版とともに蒸気船チゾーネ、ヴェローチェおよびデヴォーリからなる《C》船団をトリポリまで護衛するためにナポリを出港した[14]。12月2日の午後8時ごろ、船団はマルタの第828飛行隊所属の4機のフェアリー アルバコア雷撃機の攻撃を受け、アレテューサは対空砲火で1機を破壊し[1]、蒸気船ヴェローチェも搭載機銃で1機を撃ち落としたが、20:15に魚雷が命中して火災が発生した[15]。水雷艇ルポが支援のために現地に留まり、船団の残りは目的地への航海を継続した。23:30から真夜中の間にルポとヴェローチェはイギリスのK部隊の攻撃を受け、不利な戦闘の末に沈没した[16]。船団の残りは12月3日の午後7時にトリポリに到着した[17]

1943年4月13日、空襲を受ける最中にファヴィニャーナ島イタリア語版の近くで航空機からの爆撃で深刻な損傷を受けて海岸で座礁し[1]、回収されて修理のためにパレルモまで曳航された。

長期間の修理を経て、1943年8月1日に任務に復帰し[1]、ナポリを拠点としてシリオ、リンチェ、サジッターリオ、クリオおよびカシオペアとともに第5海軍師団傘下の第1水雷艇部隊に所属した[18]

指揮官 マリオ・カステッリ・デッラ・ヴィンカ大尉(1908年7ガツ21日、ボローニャ生)

ロベルト・ジュドッティ少佐(1910年12月26日生)

Cobelligerence

共同交戦海軍の塗装がなされたアレテューサ

アレテューサは、停戦後は連合軍の管理下に置かれた。

1943年の秋、バルカン半島に取り残されたイタリア軍の撤退作戦に参加した[1]

共同交戦の間(1943年から1945年まで)、アレテューサは連合軍とともに船団護衛任務に使用された[1]

イタリア海軍での任務

後、アレテューサは講和条約によってイタリアに残された艦艇の一つだったのでイタリア海軍に編入され[1]、高速魚雷艇司令部指揮下の第3魚雷艇戦隊に組み込まれた。

1952年12月からの約10ヶ月間、アレテューサは大規模な近代化改修と武装の変更を受け(魚雷発射管4基と100/47 mm砲1門を撤去し、ヘッジホッグ対潜迫撃砲1基を搭載[6])、高速コルベットに再分類された。イタリアのNATO加盟に伴い、1953年に新しい識別記号「F 556」が与えられた[6]

同艦はNATO軍との演習に参加した[1]

1958年にさらなる近代化を受け、残っていた2門の100 mm砲が撤去されて2門の40/60 mm Mk3機関砲に換装された[6]

1958年8月1日に退役し[1]、その後解体された。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Trentoincina.
  2. ^ Fall of France, July 1940”. 2023年10月14日閲覧。
  3. ^ a b http://www.betasom.it/forum/index.php?showtopic=34811 – Torpediniera Altair
  4. ^ 1 December, Sunday.
  5. ^ Tp classe Spica Archived 2012-02-18 at the Wayback Machine..
  6. ^ a b c d Spica torpedo boats (Spica group, 1935), Climene group (1936 - 1937), Perseo group (1936), Alcione group (1938) - Regia Marina / Italian Navy (Italy).
  7. ^ Franco Prevato: GIORNALE NAUTICO PARTE PRIMA Archived 2010-04-06 at the Wayback Machine..
  8. ^ KMS Kormoran and HMAS Sydney, KMS Atlantis and HMS Dunedin lost, November 1941.
  9. ^ 1 December, Monday.
  10. ^ Royal Navy Events January 1942” (英語). 2024年9月9日閲覧。
  11. ^ Historisches Marinearchiv - ASA.
  12. ^ http://dreadnoughtproject.org/friends/dickson/Italian%20CL%20TROMs%202.pdf Archived 2018-10-30 at the Wayback Machine..
  13. ^ Museo della Cantieristica Archived 2010-07-12 at the Wayback Machine..
  14. ^ a b c Giorgio Giorgerini, La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943, pp. 531-544.
  15. ^ Rolando Notarangelo, Gian Paolo Pagano, Navi mercantili perdute, p. 513.
  16. ^ Gianni Rocca, Fucilate gli ammiragli. La tragedia della Marina italiana nella seconda guerra mondiale, p. 270.
  17. ^ Naval Events 1942 including loss of Hermes, Cornwall and Dorsetshire.
  18. ^ 7-12 settembre 1943 - Lo Stato in fuga: 9 settembre 1943 - La fine della Regia Marina.



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